CROW
「入るよ……いるんでしょ?」

 母親は、人をほとんどデザイン室に入れない。

 せいぜい、秘書兼経営補佐の鈴木のオッサンくらいだ。

 彼は、加奈が生まれる前からの付き合いで、いまさら何を言おうが、にこにこ笑っているだけだ。

 しかし。

 ドアを開けて、まず目に入ったのは、母親ではなかった。

 ましてや、鈴木のオッサンでもなかった。

 目の前にあるのは──── 人の胸。

 これは、なかなか衝撃である。

 なぜなら、加奈の身長はそんなに低くはない。

 168cm。

 女にしては大柄なほうだ。

 この身長のおかげで、高校時代は他のヤンキーに舐められずにすんだのはまた、別の話だったが。

 ともかく。

 そんな彼女の目の高さに胸があるということは。

 ぐん、と顎を上げると、赤っぽい茶髪

「お……」

 そうつぶやいたのは、目の前の巨体だ。

 思い切り見下ろされている。

 加奈は、一瞬その身長差に怯みそうになったが、この男が一体何者なのかに気づいて、自分を落ち着けた。

 モデル、だ。

 170cm台の女性モデルがゴロゴロいる世界で、彼女らの横で負けてはいけない身長の持ち主がいる。

 男性モデルたちだ。

 190cmは当たり前。

 中学時代までは、コレクションの手伝いなどにも参加していて、巨人をいっぱい見てきた。

 あの頃の彼女は、まだ成長期の盛りで、もっと小さくて。

 だから、大きい男を見ても現実感がなく、自分との比較のしようがなかった。

 ここまで間近で見たのは、久しぶりだ。

 ずっと、裏方にこもっていたせいか。

 目の前の男は、大きいだけという感じはなかった。

 何かスポーツをやっていたに違いない。体つきががっちりしている。

 ただのルーズなシャツでも、その胸の厚さは隠せていなかった。

 浅黒い肌の首の逞しさ。
 しっかしりた、顎から耳への輪郭。

 全体的にきつめの顔立ちは、整っているというより野性的だ。

 そして何より彼は── 加奈の視線になめられるままだった。

 モデルらの得意技である。

「あっ、加奈! 来たわね!」

 奥の方で、型紙片手に母親が奔走していて。

 やっとそこで、加奈はモデルから母の方に向き直った。

「こないだ……ホラ、一番最初に作ってもらったヤツだけど……悪いけど、作り直してくれない?」

 口調は、全然悪いと思っていないあっけらかんとしたもの。

 それを聞いた瞬間、彼女はそこに他人がいることも忘れて、あからさまに顔をひきつらせた。

「一番最初って、あのメチャクチャなデザイン画のこと? 冗談じゃない。あんなんで自分の理想通りのモノ、作れると思ったの? イヤなら自分で作りなおせばいいじゃない!」

 あったまきた。

 加奈が、あれを作るのにどれだけ苦労したと思ってるのか。

 それなのに、今頃になって作り直せときたものだ。

 やめてやる!

 お金のことも忘れて、怒りがピークに達しようとする。

「ああ、違う違う。デザインの変更じゃなくって…」

 母親は、そんな娘の気持ちを知らないようなお気楽な声で、彼女を捕まえた。

「あのデザインはオッケー、ばっちりよ。ただ、気が変わったの。ホントは、他の子に着せる予定だったんだけど、イメージ的にこの子に着せたくなっちゃって」

 にこにこぉっと。

 母親は上機嫌そうに、加奈ともう一人のモデルを見た。

 男のほうは、最初からそう聞かされていたのか、全然動じている様子はない。

 加奈は、彼をまじまじと── さっきとは違う意味で見つめてしまった。

 確かにあれは、男物のスーツだ。

 しかし、とても目の前の、男の厚い身体は押し込めそうになかった。

「この子……義経くんを採寸して、作り直して欲しいのよ」

 ヨシツネェェ?

 聞かされた名前に、唖然とする。

 なんと酔狂な名前をつけられたものか。

 しかも、外見とあってないし。どっちかというと、弁慶でしょ。

 心の中で突っ込むものの、口には出せない。

 加奈自身は、デザイナーの娘にしてみれば普通の名前で。

 ある程度大きくなってから、ほっとしたものだった。

 彼は、上の方からにこっと、口の端と目尻だけで笑った。

 これで、本当に服を着せて指示を出せば、ばりっと決まるのかと少し不安に思う。

 加奈は、この間のスーツを彼に重ねてみた。
 方向的には、確かに似合うだろう。

 ただ、十分すぎるほどの足の長さを考えると、もう少しジャケット丈を伸ばしたほうがいいのかも。
 それと、スーツ全体のバランスを変更し── はっ!

 一瞬でそこまで考えてしまった加奈は、我にかえった。

 まるで、いま自分がプロのデザイナーのような錯覚にとらわれたのだ。

 違う違うと首を横に振る。

 彼女は、あくまでもバイトなのだ。

 一介のバイトに大きな仕事をよこすな、と母親の方をキッと睨みかけると。

「バイト代ははずむわよ~」

 にっこりと痛いところを突いてくる。

 ああ、そうですよ。お金が欲しいですよ~ええ、そうですとも。

 プライドと欲のバランスにさいなまれながらも、結局彼女は頷いた。

 自分の作品そのものを、母親が評価している点も、認めたくはないがその頷きを後押しする材料になっている。

 進む道を、はっきり見つけきれていない加奈にとっては、いろいろ複雑なところがあるのだ。

「じゃ、ここ採寸に使っていいから……あたしはちょっと打ち合わせにいってくるわ」

 バタバタと、母親は型紙やらデザイン帳を抱えると、せわしなく出て行こうとする。

 あわてて加奈は呼び止めた。

「ちょ、ここじゃマズイ! ただのバイトが『YOKO』のデザイン室で、一人で仕事するわけには……!」

 他の関係者に見られると、あらぬ誤解を受けてしまう。

 母親の立場など知ったことではなかったが、自分の身は可愛いのだ。

「あー? 大丈夫、大丈夫。内側からカギかけときなさい……あたしが帰って来るときは自分でカギ開けるから」

 電話もノックも無視していいわ。

 そう言って、母親は行ってしまった。

 残されたのは。

 加奈と義経。

 彼は、この奇妙な親子関係を、面白そうな目で見ていて。

 そんな視線に居心地が悪くなりつつ、義経の方を見上げた。

「とりあえず、ま…」

 この男の口が、軽くありませんように。

 そう祈りながら、さっさと仕事を終わらせてしまおうと思った。

「とりあえず…服、脱いで」

 生の人の採寸なんてするのは、何年ぶりだろう。

 そんな、年よりめいたことを考えながら、加奈はメジャーを取りに行ったのだった。
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