CROW

19:加奈

 仕事が終わった加奈は、義経に電話を入れた。

『いまから、行くから』、と。

 彼は断らない。

 しかし、それ以上何も聞いてもこなかった。

 今朝送ったFAXで、母親から何か言われているに違いないのに。

 逆に、聞かれなかったことで、ほっとしてもいた。

 母親と義経の間に、深刻なトラブルが発生していない、という意味にも受け取れたからだ。

 ヒステリックになった母親が、『裁判沙汰だ!』とか言い出したら、面倒なことだった。

 まだエントランスの自動ドアが直っていないのを、軽く横目に睨みながら、加奈はエレベーターで彼の階まで上がった。

 チャイムを押して待つ。

「ガガガッ…バーカバーカ…ヨシツネー」

 インターフォンから帰ってきたのは、家主の声ではなかった。

 しかし、彼女がいやと言うほど知っている声。

「加奈だろ? 入れよ」

 後から、ようやく義経の声がした。

 笑ったカンジだ。

 ドアに手をかけると、カギは開いている。

 不用心すぎる。

 バタンとドアを閉めて、加奈は靴を脱ぐ。

 居間のほうに立ち姿が見えて――入ると、義経が振り返った。

「よぉ…こんばんは」

 笑う義経の腕には、カゴから解放されている九郎。

「ガーー」

 大きく口を開いて、鳥らしい雄たけびを上げると、九郎はバサバサと羽を広げた。

「すごい歓迎…」

 さっきのインターフォンも含めて、加奈は嫌味を言ってやる。

 カゴから出ている九郎を見ると、逃げられた日のことを思い出してしまう。

 だが、義経の腕からは勝手に飛んでいったりはしないようだ。

 そこまで懐かれているのが、うらやましかった。

 自分にも、それくらいなついて欲しいと思う。

 加奈は、いま一人暮らしで少し寂しい自覚があった。

 だから、自分以外の何か生きているものが恋しいのだろう。

 ペットショップの前で九官鳥を探したが、そこにはいなくて――残念な思いをしていた。

「たまには出してやらんと、グレるんでね」

 右の腕から、左の腕に九郎を飛び移らせる。

 その光景を、ついついじっと加奈は見つめてしまった。

 物欲しそうに、見えたのだろうか。

 義経が、九郎を加奈の肩に飛び移らせたのだ。

 肩に感じる、重い鉤爪の感触に、わっと彼女は首をすくめる。

 おそるおそる。

 そぉっと横を見ると、九郎の方がよほどリラックスしていた。

 加奈を見たり、義経をみたりキョロキョロしながらも、飛び立とうとはしない。

 か、可愛い。

 彼女は、その生き物にメロメロになりそうだった。

「九郎」

 なのに。

 義経が腕を突き出して、加奈の肩から九郎を奪うのだ。

 ちょっと恨みがましく彼を見ると、彼もまた不機嫌そうに九郎を見ていた。

「いいか、加奈はお前に惚れてるわけじゃないんだからな」

 何を、アホなことを言い聞かせようとしているのか。

「バカか…鳥相手に」

 言うと、義経は楽しそうに笑う。

「まったくだ」

 笑いながら、彼は九郎をカゴへと戻した。

 しばらく戻りたくなさそうに、義経の腕でうろうろしていたが、「入れ」と一言言われて、諦めたようにカゴへと飛び込んだ。

「さぁて」

 振り返るなり、義経はにやっと笑った。

 反射的に、加奈は身構える。

 何か含んでいるように思えたのだ。

「とりあえずは…おめっとさん、でいいのか?」

 しかし。

 彼の言葉は、今朝のFAXに関するものだった。

 加奈の緊張が、ふっと解ける。

 後は、書類を整備して、彼に契約書を出せば、全てにカタがつく。

「コキ使うから、覚悟しといてくれ」

 言葉に、義経は少しイヤそうな顔をした。

 メンズの専属は、いまはまだ彼一人だ。

 言葉の通り、本気でコキ使うことは間違いない。

「覚悟ねえ……」

 義経は、片目を閉じて。

「まぁ、お前の服を着ずに忙しいことはないだろうから…それだけが救いか」

 彼は、時々異様に正直だ。

 その言葉で、どれだけ彼女が喜ぶか、知っているのだろうか。

 加奈の顔は正直じゃないので、そのまま表情に出したりはしなかったが。

「おてやわらかに頼むぜ…」

 そんな顔にもめげずに、抱き寄せようとする腕。

 とっさに、加奈は飛びのいていた。

 今日は、義経の顔を見て、母親の反応を確認し、成功を実感したかっただけだ。

 そんなつれない反応に、義経の眉間に影が浮かぶ。

「もしかして、契約関係になったら…プライベートの付き合いはなしにしましょう…なんて、フザケたことを言うんじゃないだろうな」

 珍しく、険悪な表情。

 もし、言葉通りなら、怒るぞ――そう顔に書いてあった。

 考えてもいなかった内容に、加奈はブフっと吹いてしまう。

「バーカ…」

 いま一瞬だけ、自分がちょっと義経より上にいた気がして、気持ちがよかった。

「そうかそうか、じゃあ……」

 加奈が拒否していないと分かるや、やはり義経は手を伸ばそうとする。

 だからといって、いまOKを出したわけではないのに。

 止めるより先に、抱え込まれてしまった。

 顔の近くで、唇が止まる。

「そういや、まだお前言ってなかったな」

 そんな近くでしゃべるな――加奈は、身体中を総毛立たせた。

 自分の声の威力をしらないのか、この男は。

「何でも言うことを聞くっていっただろ、九郎を預かってもらった時」

 そろそろ考えたか?

 加奈が、すっかり忘れていた話だ。

 もう、どれだけ前のことだと思っているのか。

 しかし、何もいらないと言ってしまうのは、もったいない。

 この男を、困らせたり驚かせたりする、格好のチャンスではないか。

 とてつもないことを言って、彼を振り回してやろうと思った。

 しかし、冷静に考えるには、この距離はひどい状態だ。

 まだいっそ、キスされたほうがマシな距離。

「あー…あのな」

 その時、ぽんと彼の肩ごしに、目に飛び込んできたものがあった。

 あっ。

「九郎……」

 ぼそり。

「え?」

 義経が、聞き返す。

「九郎が…欲しい」

 驚くだろう、困るだろう。

 その点だけは、間違いなかった。

 しかし、本気で欲しいというのもまた、事実だった。

 どうせだめだろう、とは分かってはいるが。

 前よりも少し離れて――義経は、彼女をじっと見た。

「ガーッ…ヨシツネッ」

 まさか、自分が取引対象にされているなんて気づかない九郎が、わめきたてている。

 彼は振り返り、自分の鳥を見た。

 そこで、ようやく加奈は、自分がひどいことを言ったのではないだろうかと、思いはじめたのだ。

 彼が、九郎を気に入って、大事にしているのは知っているというのに。

 義経は、彼女から身体を離し、鳥かごの方へと歩いて行く。

 加奈から見えるのは、その大きな背中だけ。

「分かった……」

 ぽつりと呟き、鳥かごを下ろす。

「あ…」

 傷つけた?

 加奈は、そう思って言葉を撤回しようとした。

 そんなつもりじゃなかったのだ、と。

 鳥かごをさげて戻ってくると、加奈に向けてそれを差し出す。

 受け取れないまま、彼女は呆然とその光景を見ていた。

 だが。

「受け取れ、お前の鳥だ……あ、その代わり、世話役は漏れなくついてくるぞ」

 かごの向こうから、ニヤっと笑う男。

 加奈は、目をむいた。

 考えて見れば、義経が九郎から離れるはずがないし、あれくらいで傷つくような繊細なタチでもない。

「あ? え?」

 押し付けられたかごを抱えながら、加奈は誰もいないというのに、右や左を見てしまった。

 九郎が、バサバサとはばたく。

「ほい……契約成立」

 大きなカゴが、間にあることをものともせず、義経の唇が軽く触れてきた。

 唖然、呆然。

 この瞬間。

 加奈は、世界で一番贅沢な肩書きの男を、手に入れてしまったのだ。


 専属モデル兼、九官鳥の世話役兼――恋人、という名の。


 メンズ・ブランド『CROW』。

 ポスターは、真っ黒いスーツを着た――赤毛の男だった。



『終』

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