たったひとりの君にだけ

私が心底感心していると、急に、左耳が消え入りそうな声を捉えた。


『あの……』

「え?なんか言った?」


自然と即座にそう聞き返すと、彼は数秒間を置いた後でこう呟いた。




『……神村さんじゃ、ありませんよね?』




思わず目を見開いた。

かろうじてたった一文字でさえ聞き返すことはなかったものの、落胆の声から一変、不安を露にした口調がそこにはあった。

そして、彼は再度、『違いますよね?』と口にする。
より一層、弱々しく感じられた。

気のせいじゃない。

そう思うのは、初めて樹と会い、別れた直後に私に質問攻めをしたときのように。
『近々フランスって嘘ですよね?』と、私にそう、問い掛けたときの声色と全く同じだから。

私も大概、バカなのかもしれない。

不謹慎と言われてもいい。
彼が望むであろう答えを口にする前に、自分がホッと胸を撫で下ろしたのがその証拠だ。

思わずクスッという声を漏らす、なんてことは到底出来ないけれど。
その一言が、何故かこんなにも嬉しくて。

まだ間に合うと、暗に言われたような気がして。

私は口角を上げて、素直に答える。


「……違うよ」

『え?』

「樹じゃない。後輩だから」


らしくもなく、柔らかな口調で切り返す。

すると、耳元に、息音と聞き間違えるほどの声が届いた。




『……よかった』




伝わる安堵感。

心が震えた気がした。
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