たったひとりの君にだけ

「ま、とりあえず、華の金曜日だしバレンタインってやつだ。楽しめ~」


適当に、ホント適当にあしらわれたところで、とりあえず私は素直に感謝の言葉を口にしておいた。


「ってか、お前もこの後デートなんだろ?江口」


突然話題の矛先を向けられた江口さんは、わかりやすくビクついてまた首を縦に振る。
初めて会ったときから感じていたけれど、彼女は心から湯川さんを恐れているらしい。


「湯川さんは予定ないんですか?」

「あるわけあるか。私は早く帰って取り溜めておいた刑事ドラマを見るんだよ」


きっと、傍にはビールと枝豆があるんだろうな、と思いながら、私は『楽しそうですね~』と返しておいた。

二人で飲みに行ったとき、欠かさずチェックするほどのマニアっぷりを披露してくれた湯川さんの男関係の話は一度も聞いたことがない。

いつか、少しでもいいから探り出したいと思う。


「ほら、早く帰れ帰れ。邪魔だ~」

「ちょっと湯川さんってば、自分から引き止めておいてそれはないですよ」

「引き止めてねえっつうの。手振っただけだ」


ああいえばこういう。
割りと口が達者な私でも、湯川さんには到底勝てそうにない。(とは言わないでおく)


「はいはい。じゃあ、お望みどおり帰りますよ」

「お~。結果報告待ってるぞ~」


何も知らないはずなのに何かを知っているような口調に一瞬ドキッとしつつも、冷静なままで右手を軽く上げた。

そして、背を向けてエントランスに向かおうとしたとき、私は思い出したように踵を返した。


「……江口さん」


終始無言の21歳の美肌小娘に向き直る。
ビクッと肩を震わせた彼女はやはり、冗談抜きで可愛らしい。

ゆるく巻かれた毛先に、大きなアーモンドのような瞳。
目的があったとはいえ、あの男が声を掛けるのも納得だ。

オドオドしている姿さえ可愛く思うなんて、私も大概どうかしてる。


「江口さん」

「は、はいっ」

「この前は大人気なくてごめんなさい」

「……え?」


大きなアーモンドがそのサイズを増す。
静かな驚きの声に遭遇したところで、私は微かに笑みを浮かべた。



「今度、湯川さんと3人で飲みに行きましょう。それじゃ」



再度右手を軽く上げて、私は受付の前を去る。

嘘の連絡先を利用したかどうかを知りたいと思ったことは、この際秘密にしておこう。
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