たったひとりの君にだけ
改札を抜け、首元までコートを引き寄せる。
昨夜は残業で11時過ぎに帰宅。
その後、久し振りにお菓子作りをした私は、勿論就寝時刻も遅くなり、しかも定時通りに帰宅出来るよう早めに出社したゆえ、言うまでもなく寝不足だ。
漏れ出るあくびを堪えながら、歩みを進める。
すると、視界に、電話を掛けながら立つ長身の男が映る。
高級であろうグレー色のコートからは、チラリとネイビーのネクタイの姿が見えた。
寒いんだから前を閉めなよと思いつつ近付くにつれて見覚えがあるのは、それが私が奴にあげた唯一のプレゼントだからだ。
そして、ようやく私に気付いた奴は、真面目な顔から一瞬表情を緩めて、少し待ってと手で合図した後で『じゃ、よろしく』と言って電話を切った。
「……仕事?」
「一応な。今日は特別な日だから、仕事の電話掛けて来るなよ、って念押したとこ」
そう言って、樹はiPhoneをポケットに入れた。
「そんなこと言ったって緊急だったら掛けて来るでしょ」
「いや、出ない」
それはマズイだろうと思いつつ、くだらない言い合いは今日は避けようと思った。
目的はそんなことじゃない。
「じゃ、行くか」
樹は私の背中に手を添える。
いつだってスムーズな対応。
フランスに行っても充分活かせるだろう。
敢えて拒まずに流れに任せる。
何故ならこれで、最後だから。