たったひとりの君にだけ

その後はスムーズに料理を頂いて、さすがバレンタイン特別コースと言うべきか、ラズベリーソースのかかった絶品チョコレートケーキで締めた私達は店を後にした。

勿論、という表現は不適切ではあるけれど、会計は樹が持った。
店の中で自分の分は自分で払うとひと悶着するのはスマートではないし、樹に恥をかかせるだけだと思った。

重い扉を抜けた先、寒い外でなら現金を手渡すことも出来たけれど、今日はそれはしない。

今日は、これが私なりのプライド。

最後くらいは、かっこつけさせたいと思った。


「さ、腹いっぱいになったことだし、帰るか」


人目も憚らず大きく背伸びをして、樹は地下鉄の駅へと足を向ける。


「明日、出発早いの?」

「あ~、朝イチだよ、朝イチ」


上着のポケットに手を入れながら白く濃い息を吐く。

これから帰ってスーツケースに荷物でも詰め込むのだろうか。

そもそも、シンガポール転勤を終えてフランスに行くまでのあいだ、樹は何処に身を寄せていたのだろう。
マンションは賃貸だったはずだから、引き払って1年間、この島国を後にしたと考えるのが妥当な気もするけれど。(樹の部屋は驚くほどに物が少なかった)
だけど、1年と期間はハッキリしていたから、引き払わずにそのままにしていたかもしれない。

今となっては確認するつもりも、その必要もないけれど。


もうすぐ私達は別々の道へと行く。

これから先、決して交わることはないだろう。

だからこそ、その前に、立ち止まったままの樹の背中に、私は声を掛ける。
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