たったひとりの君にだけ
「とりあえず熱測って下さい」
いっそのこと、諦めた方が賢明だと悟った。
きっと、これ以上はいつものようなスムーズな返しは期待出来ない。
いつもは言い負かせるような相手に、見事に言い負かされるだけだ。
素直に従うのが得策と結論付けて、チェストから取り出した体温計を受け取る。
だけど、布団の中で隠れて脇の下に挟むと、こちらを見つめる視線に気付いた。
「……何、じろじろ見て」
もう黙っておこう。
そう決めたはずなのに。
居心地の悪さを拭えなかった。
「大丈夫かなって見てただけです」
「……大丈夫だよ、生きてるもん」
「そりゃそうですよ。死なれたら困ります」
「困らないよ、私が死んだって世界は変わらず回るから」
地球は、自転のスピードも公転のスピードも、決して緩めない。
秒針だってその速度を変えることなく、一分一秒を刻む仕事を怠ることはない。
仕事に関してだってそうだ。
私がいなくたって結局は回るし、逆に私一人がいなくなって業務が滞る組織なんて社会に在るべき組織とは到底言えない。
つまりは誰も困らない。
「……俺は困りますよ」
心の中で間髪入れずにハッキリと断言した後で、どこか冷たい声が降ったかと思えば今度は不貞腐れたような声色に変わった。
「芽久美さんがいなくなったら困るんですって。まだまだ一緒に行きたいラーメン屋あるんですから。……お土産だって食べてもらいたいし」
何故だろう。
最後のは照れ隠しのように思えてならなかった。