たったひとりの君にだけ

何も聞こえて来ないでいると、沈黙を破るように体温計がピピッと鳴った。

さすが、去年の忘年会のビンゴ大会で当てた、30秒体温計最新ver。
速度が命は伊達じゃない。

いろんな意味で助けてくれる一品に、生まれて初めて心の中で感謝した。


「見せて下さい」


強気の彼に圧されて、私は顔を背けながら渋々手渡す。
直後に聞こえた耳障りな溜息は、わざわざ聞かなくても、あぁやっぱり、と思わせるような鬱陶しい重さが前面に出ていて、思わず布団を被ってシャットアウトしたくなった。


「ったく、こんなに熱出して。39度超えてますよ。39.2度!」

「おぉ、もう少しで40度だったのに惜しいな、残念」

「ふざけてる場合ですか!インフルエンザだったらどうするんですか!」


茶化しても、何しても、今の彼にはこれっぽっちも通用しない。
真面目に返さない自分が、彼の言うとおり少しだけアホだなと思った。


「……予防接種したから大丈夫だもん」

「予防接種しても罹るときは罹るんですよ。俺去年罹りましたから。しかも2度目」


それって絶対自慢出来ることじゃないよ。


「じゃあ予防接種の意味ないじゃない」

「仕方ないですよ、社則なんですから。会社には逆らえない」


その意見には激しく賛同だ。

好きな仕事じゃなくても、やりたくないことだらけでも。
生きていく為にはお金を稼がなくてはいけない。

私も例外なく会社に従順な女だ。

私一人がいなくても会社は回るけれど、我が家の家計が回らなくてはなんの意味もない。
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