あたしの心、人混みに塗れて
「ふふっ。なんか彼女みたい」


ニコニコ顔でさらりと言うもんだから、あたしは一瞬硬直してしまった。


「はいっ、いってらっしゃい」


マフラーを巻いてぽんとコートの胸元を叩いたけど、蒼ちゃんはあたしを見たまま動こうとしない。


「蒼ちゃん、遅刻するよ」

「ともがちゅーしてくれないから動けない」


……何とまあ、こじつけくさい言い訳ですこと。


「蒼ちゃん、あのねえ」

「早くしてえ」


出たよ、蒼ちゃんの甘えた。


自分からちゅーしたことなんか、かれこれ10年はやってないってのに。


普段は蒼ちゃんからやってくるから。


「とも、俺遅刻するんだけど」


少し強い口調で言われて、あたしは少しためらってから蒼ちゃんに顔を近づけた。


右の頬にキスする。


一瞬触れて慌てて離れると、蒼ちゃんはなぜかむっとしていた。


「とも、違う」

「は?」


こっちはなけなしの勇気を振り絞ってちゅーしたってのに!


心の中でそう訴えていると、蒼ちゃんの唇が一瞬あたしの唇に触れた。


「じゃ、行ってくるね」


ニコニコ笑って、蒼ちゃんは家を出て行った。


……唇にって言いなさいよ。


あたしらは夫婦か。


でも、夫婦ならこれくらいのキスで恥ずかしくはならないんだろうなと思って慌てて玄関から離れた。


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