だから私は雨の日が好き。【春の章】※加筆修正版





「今度飲みに行く時は折半な」




伝票を持ち上げて櫻井さんはそう言った。

別に今日だって『奢ってほしい』なんて一言も言ってないのに。

でも、いつだって。

別にいいよ、と言ってしまう、人が良いのか馬鹿なのか分からない上司だということも、知っている。



でもまさかこんな短時間で、櫻井さんに言われた言葉を忘れてしまっていたなんて。

たった一時間前くらいのやり取りなのに、どうしてこんなにも私の中に残ってはくれないのだろう。


遠い記憶の中の人は、今もこんなにも鮮明に想い出せるというのに。

鮮明過ぎて、それが『今』なのかもしれないと、勘違いしてしまいそうになる。



少し想い出し過ぎて、現実との境目が曖昧になってしまっている感じがした。

雨が、この慌ただしい世界に降り注いでいるせいかもしれない。




「ご馳走様でした」




櫻井さんが会計をしてくれているのを、出口の外に出て待っていた。

おう、と小さく答えて、二人で小さな屋根の下から空を見上げる。




「結構降ってるな。まぁ、粒も小さいしそこまで濡れないだろう」


「そうですね。あそこで傘買って、すぐに向かいましょう」




カフェを出て少し行ったところにコンビニの看板が見えた。

走ればそんなに濡れずにいける距離だろう。




「よし。じゃあ行くか」




その言葉を合図に二人で駆け出した。

小さく降る雨の粒を全身に受けながら。




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