だから私は雨の日が好き。【春の章】※加筆修正版
「・・気を付けて帰れ」
そう言ってすっと手を離した。
タクシーのドアが閉まった音が響いてタクシーが滑らかに走り出す。
まるで水の上をすべるように。
真剣な顔をしていた森川。
そんなに心配してくれなくても、このくらいの時間に帰るのは平気なのに。
いつも仕事帰りは終電に乗っているんだから、少し早いくらいだ。
森川が少しでも寝られるように、と思いながら駅に向かって歩き出した。
雨粒が大きくなってきた。
量はそれほど多くはないが、傘にあたる雨の音が大きく響いている。
ぱたぱたと、優しい音ではない。
時折、バチッと弾けるような音がするのは、電線から落ちてきた雨粒だろう。
夜の折りたたみ傘の中。
一人ぼっちで歩く、喧噪の中。
あぁ。
こうして人は、記憶の欠片を捕まえるのか、と。
現実で近しいものが傍にないと、私の記憶はどんどん私を侵食していく。
会社を出てから、三時間半。
森川と別れてから、たった数分。
それなのに。
その時間の方が、今の私には現実味がない。
奥深く、根付いた記憶が私を包んでいく。
大粒の雨の中、問いかけられた言葉を想い出す。