明日、嫁に行きます!
ガタンという物音に、ふっと意識が浮上する。パチッと目が覚めた。
窓から差し込んでくる淡い光はいつの間にか夕焼けのオレンジに色を変えていて、かなりの時間眠ってしまったことに気付かされる。
ゆっくりと身体を起こして、物音がする方へ目を向けると、
「あ、寧音。よく眠っていましたね」
ソファーに座ってニコリと笑う鷹城さんがいた。
「おかえりなさい、鷹城さん」
「おはよー。寧音ちゃんお寝坊さんだねぇ。それってやっぱ総兄のせい?」
エロい目でニヤリと微笑む徹くんが、キッチンでコーヒーを点てている。
驚いて2人の顔を見比べてしまう。なんで徹くんまでいるんだろうと首を傾げた。
呆然とする私に、鷹城さんはテーブルの上に分厚い書類を置くと、おいでおいでと手招きしてくる。
「寧音、この書類なんですが」
トトトッと走り寄る私に、鷹城さんは封筒から書類を取り出した。
「うん、なに?」
「寧音のお母様から預かったものなんですが、ここに名前を書いてもらえますか」
ほぼ白紙に近い書面の真ん中らへんを、鷹城さんはトントン指を鳴らしながら示してくる。
「お母さんが? なんだろ」
「さあ。大学の書類がどうの、とか言ってましたね」
「ふうん?」
「寧音ちゃん、コーヒー入ったけどお茶菓子ってどこにあるのー?」
早く早くと急かす徹くんの声に焦ってしまう。
「あっ、ちょっと待って、徹くん。えっと、名前と住所だっけ? ここでいい?」
鷹城さんが指し示した箇所に、私は適当にさらさらと住所と名前を書いた。
「はい、書いたよ。徹くん、そこの棚にクッキーあるから出してくれる? あ、違う違う、そこじゃない」
鷹城さんにペンを返して、私はキッチンまで慌てて駆けていく。「ここに置いてあるんだよ」と、棚からクッキーの缶を出して振り返ったら、後ろにいたはずの徹くんの姿はすでになく。
「寧音ちゃんってホント、お間抜けさんだよねー」
鷹城さんの隣で、頭をゆるく振りながらクスクス嗤う徹くんと目が合った。
「は? 何が?」
缶を抱えたまま首を横に傾ける。鷹城さんは私が記入した紙の下から一枚、別の紙を抜き取り、徹くんへと手渡した。
「じゃ、行ってきまーす」
渡された紙を受け取った徹くんは、ピラピラと薄いそれを振りながら、リビングから走り去ろうとする。
私は徹くんが手にした紙を見てギョッとした。
よく市役所とかで使われていそうな薄い用紙。
なんか、ドラマとかで見たことあるその紙に、頭も顔もサーッと真っ白になった。
あれって……あれって、まさか。
――――まさか、婚姻届!?
「ととと徹くん!? ストップちょい待った! それなに、ナニソレッ!? どこ行く気!?」
逃げようとする徹くんを追いかけようとして、慌てて前に出した足先がふわりと宙を掻く。
あっと声をあげた。視線を落とすと、腰に回った腕がガッシリと私を拘束していて。目にも止まらぬ速さで、私、鷹城さんに捕獲されてしまっていた。
「くくっ。どこ行くかって? そんなん決まってるじゃなーい。市・役・所!」
あれ、複写式のカーボン用紙だったんだよねーと、徹くんに腹黒い小悪魔的な笑みを返されて、息を呑んだまま唖然となる。
愉しげにケタケタ声を立てながら玄関扉を閉める徹くんを、茫然自失、放心状態になりながら見送ってしまった。
「たたた鷹城さん!? 一体どういうこと!? 大学の書類とかって嘘吐いたの!? あれって……あれって、婚姻届だったの!?」
ハッと我に返った私は、拘束する男の腕を渾身の力で振り払い思いっきり抗議してやる。
「……じたばたと、いつまでも無駄な抵抗を繰り返す。そんな寧音を黙らせるには、犬のように『鎖』を付けるのが1番だと思いまして」
……鎖って。しかも犬のようにって何事!?
確かに、結婚って一生ふたりを繋ぐ鎖のようなものだけれど。少なくとも、犬に例えられるものじゃないよね?
そんな言い方をされると、なんだか殺伐とした気持ちになる。
……ああ、高見沢さんの一件で分かったつもりだったのに。
想いが深すぎると、人生を狂わす事態に陥ることもあるんだって。
今まさに、私の人生は、彼の激しすぎる独占欲によって狂わされてしまったんじゃなかろうか。
……分かってたつもりになっていた、自分の浅はかさが恨めしい。
まさに痛恨の極みだった。
私に突き刺さる鷹城さんの視線を撥ね付けて、ギッと鋭く睨んでやる。
凶悪な犯罪者的行動とは裏腹に、もの凄く清々しい笑顔を向けられて、その落差にガクリと脱力しそうになる。
「お母様は賛同して下さいました」
――――保証人欄は、お母様にも書いて貰った。
そんなことをペロリと抜かした鷹城さんに、お母さんもグルなのかと呆気に取られて二の句が継げない。
「2年後も今も、結婚するのに変わりありません。ちょっと早くなったと思えばいいんですよ」
ね? と、微笑む彼の眸には、獰猛な肉食獣が潜んでいて。さながら私は、食い散らかされる寸前の草食獣そのもので。
陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクと喘がせながら、鷹城さんの目から視線が逸らせなくなる。
「僕から逃げようなんて、思わないことです」
――――貴方は前科がありすぎる。僕は安心して眠ることも出来ません。
唇が塞がれる寸前。挑むように瞳をのぞき込まれて、毒々しいまでの色気を滲ませながら囁かれる。
「貴女は一生、僕のモノです」
――――絶対に逃がしはしない。
楽しげに唇を歪ませながらの宣告は、私の抵抗の声と共に、重なった彼の唇へと吸い込まれて消えてしまった。