明日、嫁に行きます!
「寧音はあの人の所にお嫁に行くのね」

 しみじみと呟くお母さんに、私はギョッとした顔を向ける。

「ちょっ、行かないし!」

 早い早い! なんでそうなる!
 借金を盾に偽装結婚を持ちかけられてはいるけど、鷹城さんには徹くんもいるし、社交辞令じゃない彼の本当の気持ちなんて全然分からないし、まだお付き合い以前の問題なのに!
 焦ってわたわた手を振る私に、お母さん、

「でも、あの人全然隙がないから。寧音がちょっとでも好意をチラつかせようものなら、速攻で逃げ道塞がれて、婚姻届提出されちゃうか、妊娠されられちゃうか。どっちかでしょうねえ」

 顎に手を当てながら、お母さんは恐ろしいセリフをペロッと言う。そんなことになるかもってわかってて、よくも私を鷹城さんの元にやったなと、恨みがましい目を向けてしまう。
 自分で非道なセリフを言っておきながら、お母さん、もの凄い怖い形相になって「それは困るわね」と地を這うような低い声で呟いた。

「寧音、万が一襲われそうになったら、男の人の最大かつ最強の急所を狙いなさい。その急所というのはね、キン」

「きゃ――っ! お母さんっ! 知ってる知ってる! なに真顔で言おうとしてんの!?」

 私は卑猥な単語を口にしようとするお母さんの口を両手で押さえた。
 お母さんは私の手をペイっと振り払い、「ねじり上げて引っこ抜くか、抉るようにして蹴り飛ばすのよ」はんなりと微笑みながら、懇切丁寧に指導してくれた。
 私、母親の談義に「なんでこんなことを指導されねばならんのだ」と、泣きそうになりながら「……わかりました……」そう項垂れながら返事をした。

 その時、ポケットがブルブル震えだした。震え続ける携帯を取り出して画面を確認すると、鷹城さんからの着信だった。手にしたスマホを慌てて耳元へと持っていく。

「もしもし鷹城さん? どうしたの?」

『寧音、今どこにいるんですか!?』

 焦った彼の声に、私がびっくりしてしまう。

「今家に帰ってきてるの。授業が休講になったから。ごめんなさい、言うの忘れてた……」

 そう言えば、今日から鷹城さんのお手伝いするって言ってたの忘れてた!
 遅刻した!? 慌てて時計を見るも、まだ午後3時。
 約束の午後5時にはまだ2時間も早いけど……。
 私は『なんで?』と、首を倒した。

『斉藤の家ですか? 何故?』

「え? 理由なんてないよ。ただ単に、家族に逢いたいなあって思っただけだから」

『……待ってなさい。すぐに迎えに行きます』

 私の答えに、鷹城さんの声がみるみる低く剣呑になってゆく。

「え? いいよ、大丈夫。自宅から鷹城さんの会社までいくから」

『許しません』

 ――――ブチッ。

 あ、切れちゃった。
 でも、なんで?
 今のは一体何だったのか。
 許さないって、何を許さないんだろう?
 呆気に取られて顔から表情がスコンと抜け落ちた。訳がわからなかった。なので、かくかくしかじか、なんだこれ?と、お母さんに話して聞いてみた。

「まあまあ、鷹城さんったら」

 ふふふと、たおやかに微笑むお母さん、呆ける私を意味深な流し目で一瞥してくるんだけど……。

「逃げ出した貴女を取り戻しに来るのね。まるで王子様みたい」

 違う違う、そもそも逃げ出してなんかいないし、彼は王子なんてそんな綺麗なものじゃない。
 腐界に住む悪の大魔王の間違いです。

「すぐに迎えに来るって言ってたけど……冗談だよね?」

 ――――そんな、まさかね。だって、いくらなんでもこの時間は仕事中だろうし。……来ない、よね?

 血の気が引いた顔で、私は唇を引き結び黙り込む。

「冗談なものですか。絶対来るわ。彼は来る」

 お母さん、妙に確信に満ちた顔でそう断言した。私は、「まさか。来るわけないじゃん」言いながら、顔がだんだん強張ってゆく。

「……いや、マジで。来ないよね?」

「誰が来るの?」

 母と向かい合って話していたその隣から聞こえて来た可愛らしい声。ツインテールの毛先を揺らしながら、ひょっこり顔をのぞかせたのは。

「サラ、おかえり!」

 ふたつ下の妹・咲良《さら》だった。

< 56 / 141 >

この作品をシェア

pagetop