明日、嫁に行きます!
耳に響く事務的な機械音が、いつもより重く、永遠のように聞こえた。コール音が耳朶を震わす度、心臓の鼓動は、時を刻む時計の秒針を追い抜き、一段と早くなってゆく。
そして、聞き慣れた懐かしい声に、胸の鼓動が一瞬止まった。
『お姉ちゃん? どーしたの?』
もう一ヶ月以上逢ってない可愛い妹。サラの声。
「……サラ?」
『うん、なあに?』
「聞きたいことあるんだ。あのね……昔、お祖母ちゃんに聞いたマタイの福音書、覚えてる?」
怖いくらいに心臓が高鳴っている。怯えを悟られてしまうのではないかと思うほどに声が震え、緊張に身体が強ばり、携帯を握る手のひらに汗が滲み出す。
『うん。もちろん』
「昔、子供の頃。鷹城さんに話した記憶……ある?」
『え? 鷹城さん? この前、血相変えてお姉ちゃん迎えに来た男の人だよね。なんで? 逢ったのあれが初めてだよ』
朗らかに笑いながらサラは言う。
――――サラ、覚えてない?
「12年前なんだって。ホントに? 記憶にない?」
『12年前ってサラまだ4歳じゃん。マタイの福音書はお気に入りだったから、子供の頃たくさんの人に話してたけどさ。でも、あたし記憶力だけはめちゃくちゃいいから、あんな美形な男の人に話してたら絶対覚えてると思うんだけど。……んー、やっぱり記憶にないなあ』
――――覚えてないんだ。
それはそうだろう。サラはまだ、たった4歳だったのだから。記憶になくて当然なのかも知れない。
全身を縛り付けていた緊張の鎖が解《ほど》けて、安心したように弛緩する。そのことに嫌悪感を覚え、私は唇を切れるほどに噛み締めた。サラが覚えていないことに安堵する、そんな自分が酷く薄汚いもののように感じた。
「覚えてないんだ、そっか」
『覚えてないって言うけど、あたし、そんな昔に鷹城さんに会ったことなんてないし。で? それがどうかした?』
「ん、なんでもない。それだけ聞きたかったんだ。ごめんね」
ギチギチに硬くなった手のひらを開いて、携帯を切った。
今、脳裏をよぎった姑息な考えに吐き気がする。
通話終了のボタンを押した指先が、小刻みに震えていた。
「……どうしよう。私、嫌な女になるよ……」
このまま黙って、鷹城さんの望む天使が自分だと、偽ってしまう?
素知らぬ顔で、昔出逢った少女は私で間違いないのだと。
――――私は、鷹城さんを騙すの?
「……イヤだ、イヤ」
自分を偽って、そして、彼を騙し続けて傍にいることは、私の矜持が許さなかった。
けれど、私は。
許されるなら、あと一日でいい。
もう少しだけで、彼の傍にいたかった。
「……ごめんなさい……」
誰に聞かれることもない謝罪の声は、薄暗い部屋の中で小さく解け、消えてしまった。