明日、嫁に行きます!


 ふと、扉の向こうに人の気配を感じた。

「寧音」

 私を呼ぶ鷹城さんの声。どこか昏く沈んだ声に、ベッドへ横たえていた身体を少しだけ起こした。
 私の動きに合わせてスプリングがギシリと軋み、その音にハッと息を呑む。驚いた身体が竦み上がり、静止画像のようにピタリと動きを止めた。

「……寧音」

 返答がないのを焦れるような声色。そして、イライラと扉がノックされる音。
 鷹城さんの声を聞いただけで、懊悩に錆び付いた心が蕩けだし、熱を持つ。
 そんな自分の反応に、どうしようもないなと苦笑が漏れた。

「そのままでいい。聞いて下さい。今から少しだけ会社へ向かいます。夕食はいりません」

 私は答えを返すことなく、じっと彼の声を聞いていた。
 ガチャリとドアノブが回る。しかし、鍵を掛けていたため、ドアは開かなくて。

「寧音? ……もしかして、眠っている?」

 戸惑うような鷹城さんの声に、また目頭が熱くなってくる。

 ――――早く行ってしまって。消えて。……いや、行かないで、ここにいて。

 鬩《せめ》ぎ合う相反する心の声が、口から飛び出てきそうになる。奥歯を噛みしめて心の声を押し殺し、私はベッドに顔を埋めた。
 鷹城さんの足音が遠くなる。行ってしまったのかと寂しくなり、沈めた顔を扉へとずらした。
 けれど。
 再び足音が近付いてきて、突然、ガチャリと扉が開かれた。

 ――――え!? あ、合い鍵!?

 ベッドに顔を半分埋めたまま、成り行き上眠ったふりをする。いきなりの事態に、動揺する心を静めるのに必死だった。
 ゆっくりと近付いてくる鷹城さんの足音に、後ろめたさを抱える心が怯え出す。目を瞑り顔を横に倒したまま、、ゴクリと喉を鳴らした。

「寧音」

 囁かれる私の名前が、思いの外近くに聞こえた。瞼の向こう側の光が遮られ、吐息が触れるほどの近しい距離。ほんの間近まで顔を寄せらているのが分かった。

「……貴女は今、何を悩んでいるのですか」

 ギクリとした。鷹城さんは気付いている。彼の寝室で泣いてしまった理由を、私はちゃんと説明していない。説明出来る状況じゃなかった。だから、何かに思い悩んでいると悟られてしまったんだ。
 心臓の音が、激しくドラムを叩いているように、身体中に響き渡る。私が動揺する音を、彼に聞かれてしまうのではないかと恐怖した。

「――――でも」

 ふふっと低く笑む声が、さらに私に近付いてくる。緊張に、瞼が小さく痙攣した。

「何を思い悩もうと、もう手遅れだ。貴女はすでに、僕の手の内にある」

 彼の唇が私に首筋に触れる。彼の言葉が私の肌を震わせる。ザワリと肌が粟立った。 

「……ッ」

 首筋にチクリと痛みが走る。思わず声が漏れそうになり、歯を食いしばって耐えた。

「寧音、貴女は僕から逃げることは出来ない」

 ――――決して逃がしはしない。

 私に向けられた『独占欲』という名の甘い猛毒に、頭の芯が痺れるように麻痺してゆく。
 私は彼に翻弄され惑乱した心を抱えたまま、彼の気配が離れ、ゆっくりと扉が閉まる音を、ベッドの上で震えながら聞いていた。





 鷹城さんが家を出たと同時に、私はベッドから飛び起きた。

「び、びっくりしたっ……」

 未だにドクドクと激しい拍動を繰り返す心臓を、グッと拳で強く押さえ付ける。
 そして、そのまま洗面所へと駆け込んだ。
 目の前の鏡に、鷹城さんの唇が触れた箇所を、そろりと首を倒しながら確認してみる。

「……キ、キスマーク」

 白い首筋に刻印された紅い華。

 ――――ダメ。……苦しい。

 陸に揚げられた魚みたいに、息苦しさに浅い息を繰り返す。身体に燻《くすぶ》る悶えるような狂おしい痺れ。力を失った肢体が、頽《くずお》れるようにしてヘナヘナとその場に座り込んでしまう。

 ――――こんなの卑怯だ。

 自分のものだと言わんばかりに所有印を刻まれて、独占欲の固まりみたいな言葉を囁かれて、私はどうしたらいいの?
 鷹城さんが欲しいのは私ではない。私ではないのに、期待してしまう。
 ちゃんと真実を告げて、出来るならこのまま鷹城さんのそばにいて。
 契約が切れてしまうまでに、彼が想いを寄せる天使ではなく、私自身を好きになってもらえるかもしれないと、そんな淡い期待を抱いてしまう。
 それは難しいことなんだろうか。
 彼の天使ではない時点で、そんなチャンスは与えられないんだろうか。
 ふいに高見沢さんの姿が脳裏を掠めた。
 彼女の姿が、また私と重なってみえる。
 大好きな人と婚約出来た喜びの最中、突然婚約を解消された彼女の失意、痛み、苦しみは、いかほどのものだったろう。
 行動を制限されて、自分のものだと言わんばかりに所有印まで刻まれて、身動きが取れないほどに独占欲の鎖で縛り付けられて。
 けれど、真実を告げて、彼に突き放されてしまったら。彼が望む天使ではないと拒絶されてしまったら。

 ――――その時、私はどうしたらいいの?

「……耐えられない……」

 悲鳴を上げる心に耐えきれず、その場に蹲ったまま、私はしばらく途方に暮れてしまった。






 その日の深夜、鷹城さんは仕事から戻ってきた。
 私は何事もなかったかのように彼と接し、浴室へと消えた彼のために、リクエストされたお酒を用意して待っていた。

「寧音、僕がいない間、変わりはなかったですか」

 ラフな部屋着に着替え、バスタオルを首に掛けたまま出てきた鷹城さんに、「心配性だなあ。何もあるわけないじゃん」にっこり微笑みそう答えた。
 何か言いたげな顔を向ける鷹城さんを無視して、私はテーブルにお手製のおつまみなどを並べ、バーボンをドンッと置く。
 鷹城さん、バーボンをストレートで飲むのが好きなんだ。一緒に暮らして知ったことだった。
 鷹城さんは、愛煙家で、お酒はバーボンとかの洋酒が好き。バーボンの中でも荒々しい系な『イエロー・ローズ・オブ・テキサス』15年ものを気に入ってて、よく飲んでる。
 おつまみは、肉系とチーズ、あと刺激があるものが好きっていうのも最近知った。だから、お手製ローストビーフと黒胡椒入りのチーズ、マスタードをたっぷり入れたポテトサラダ、ナッツなどの乾きもの、ドライフルーツなどを用意して、『これでどうだ』とばかりに、私は満面の笑みを浮かべた。

「鷹城さん、飲もう。私も付き合う」

 手にした空のグラスをご機嫌に振って、鷹城さんの隣へと座る。

「寧音。大丈夫ですか?」

「ん? なにが?」

「出掛ける際部屋へ行きましたが、応答がなかったので」

「ふふっ。ごめんなさい。疲れてたみたいで、寝ちゃってたんだ。でも、書き置きはちゃんと見たよ。仕事行ってくるって」

「……寝てた? そうですか」

 片眉を跳ね上げ、ふふっと意味ありげに微笑む。
 ギクリとした。狸寝入りしてたのがバレたかと思った。でも、『狸寝入りしてたの、知ってたの!?』なんて、口が裂けても言えない。聞けやしない。

 ……さらっと流そう。

 そう思うのに、鷹城さん、唇に笑みを刻んだまま、ひたと見据えてくるものだから、思わず不自然に顔を逸らしてしまった。顔が赤くなってる気がする。だって、火を噴いたように顔が熱い……。
 髪で隠した首筋の華がズクリと疼く。熱が引かない身体に、速さを増す鼓動。おさまれおさまれと、呪文のように繰り返す。
 深呼吸をし、身体に灯った焔を誤魔化すようにしてグラスへと視線を落とし、バーボンを注ぐ。そわそわと落ち着きのない動きで、琥珀色の液体が大きく揺れるグラスを彼に手渡した。
 くくっと低い嗤いが聞こえたけれど、深く考えない、なにも聞かなかったことにして、手にした自分用のグラスへポイポイッと乱暴に氷を放り込んだ。
 グラスに注いだバーボンを前に突き出し、

「かんぱーい」

 空元気な声をあげた。
 鷹城さんのグラスと私のグラスが重なり、チンッと軽い音を奏でる。そうして、グラスに入った琥珀色の液体を一気に煽った。早く酔ってしまって、自分の想いを如実に伝えてしまう、赤く染まるこの熱の言い訳にしたかった。

「こら、寧音。そんなふうに飲むんじゃない」

「うふふ、大丈夫。私ね、実は、結構飲める口なんだ」

 悪戯に笑ってみせる私に、鷹城さんは呆れた目を向けてくる。

「どうなっても知りませんからね」

「言ったな、上等。飲み比べしよう。鷹城さん負けたら契約解消、借金チャラよ」

 身を乗り出し、挑戦的な目を向けながらニヤリと笑む。鷹城さんは目を瞠り、そして、くくっと喉を震わせた。

「大きく出ましたね。では、寧音が負けたら?」

「鷹城さんにとって、いいこと教えてあげるわ」

 ――――誰も知らない私の秘密。

 声を潜めて告げる。誘惑するように、婀娜っぽい視線を送りながら。
 鷹城さんみたいな大人な男が、私なんかの誘惑に引っかかるとは思えない。
 けれど。引っかかって欲しかった。
 誰も知らない私の秘密。それは、私にとっては良いことではない秘密。
 鷹城さんの天使が私ではないということ。
 そして、鷹城さん。本当に望む天使を手に入れることが出来るという、貴方にとって嬉しい事実。

 私は注いだバーボンをまた煽った。
 鷹城さんは、私の行動が解せないという顔つきで、グラスを傾けている。訝しむような、責めるような、そんな眼差しで、じっと私を見つめたまま、無言で杯を空けてゆく。

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