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「ねぇ、きーちさん……」
「ん?」
「ほんとは、結婚なんてしてないんでしょ?」
私がそう尋ねると少しの沈黙のあと、貴一さんがと小さくため息を吐いた。
「まいったね……」
その言葉に、やっぱりと思って微かに心が軽くなった。
言いながら貴一さんはなんだか可笑しそうにクスクス笑ってて、薬指のプラチナの指輪に小さくキスを落とした。
わざとなのか、その仕草はやっぱり傷付くし、まさかという不安が胸に浮かんだ。
けれど、昨日みたいに逃げ出したくなくて、私はぎゅっと手のひらを握り締めて貴一さんの言葉の続きを待った。
「まいったねぇ……どうしてバレたんだろう」
「お、女の勘」
まさか隆雅さんの手紙とは言えなくて、そんな風に返した。
その答えが可笑しかったのか、貴一さんはもっと笑った。楽しそうに。
「女の勘かぁ、すごいね奈々ちゃん」
「……どうして、嘘ついたの?」
「……そうだね、自分の為かな……あと、奈々ちゃんの為にもね」
「あたしの為?なんで?なんで、そうなるの?」
(あれだけいっぱい泣いて、いっぱい傷付いたのにっ……)
そう思うと、貴一さんに尋ねる声がついつい強くなってしまう。
けれど、貴一さんは相変わらずのへらっとした笑みのままゆっくり口を開いた。
「奈々ちゃんは、まだ若いから……」
「……え?」
「……君は、まだまだこれから先の人生で色んな人に出会うだろうし、どこへだって行けるよ。
それなのに、僕みたいなおじさんのせいでその沢山の選択肢を潰してしまうのはもったいない……」
貴一さんの言葉は、大人の言葉だった。
私はまだ沢山の大人に守られて生きている子どもで、貴一さんは守る大人だ。
子どもの私を守る…正しい方向へ導こうとする、優しい大人の言葉だった。
「……わかってくれた?」
そう言って貴一さんが優しく声を掛ける。貴一さんの言いたいことはすごくよくわかる。それに、少し嬉しくもあった。
だから私は素直に頷いて答えたけれど、どうしてもこれだけは言いたい言葉があった。
「……前に、同じ様なこと歩美さんに言われた」
「そう」
「あたし、その時ね、こう返したんだよ……"それでも、あたしは貴一さんがいいです"って」
貴一さんの綺麗な瞳が微かに揺れた。
「今でも、その気持ち変わってないよ」
そう伝えると、貴一さんが困ったような泣きそうなような、情けない顔で笑った。