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「婚約の話なんだけどね……」
手を繋いでクジラの骨を見上げたまま、古川さんがそうぽつりと切り出した。
本当は聞きたくない。
けど、そう言ってしまう勇気なんて私にはなかった。
「僕の方から、断わっておくから」
そう発せられた言葉に、胸の奥がぎゅっとなる。わかってたはずなのに。
「けど、本当に楽しかったよ。ありがとう……」
「……うん」
私の方こそ、ありがとうございました。
そう返したかったのに、喉の奥からは言葉が出てこなかった。
握った手にぎゅっと力を込める。
離れたくない。
もっとずっと、古川さんと一緒に居たかった。
「ね、古川さん……」
「うん?」
「もし……もしだよ?あたしが、古川さんの婚約者でいたいって言ったら……どう思う?」
冗談めかしてそう尋ねた時。古川さんは微かに息を飲んだ。その振動が繋いだ手のひらから伝わった。
「……奈々子ちゃん、それは……っ」
「もしも!もしもの話だから!」
だから答えてよ。と、笑いながらお願いする
古川さんは少しだけ黙り込んでから、クジラの骨を見上げながら口を開いた。
「それは……受け入れられない話だよ。
奈々子ちゃんはまだ若いし……これからの人生の選択肢を、僕みたいなおじさんのせいで潰してしまうのはもったいないと思う」
古川さんの言葉は、子どもの私には理解出来ない大人の言葉だった。
(古川さんを選ぶって選択肢は、そんなにいけないことなのかな……)
そんなことを思いながら、少しだけ泣きそうになった。上を見上げていて、本当に良かった。
「……けどね」
ふいに、古川さんが付け足すようにまた口を開く。繋いだ手がぎゅっと優しく私の手を握り締めた。
「もしもの話でも、奈々子ちゃんが僕を選んでくれたら……それは僕にとっては、とても……嬉しいことだよね。
奈々子ちゃんのカレーがまた食べられるし……家に帰ればおかえりって言ってもらえるし、また一緒にクジラの骨を見上げたりして……、
僕みたいなおじさんには、それだけで十分幸せなことだ……」
言って古川さんが子どもっぽく笑う。
古川さんが、嬉しいって思ってくれる。
幸せだって。
古川さんに全然釣り合っていなかったお子様の私の存在を、嬉しいと言ってくれている。
お世辞でもなくて本心でそう言ってくてるのがわかって、また胸の奥がぎゅってなった。
(それなら……言っちゃおうかな……)
怒られたって、呆れられたっていい。
だって、
古川さんが嬉しいって思うことが、私にとっての最良の選択なのだから……。
「古川さん、あのね……、
あたし、古川さんのこと……」
-May-