ヒカリ


結城は大きくひとつ息を吸うと、話し始めた。


「高校三年の夏、拓海は一人の女性と出会った。その女性は年上で三十前半。偶然にも拓海の母親と同じ年だった。拓海は端から見ても危ういと思うほど、彼女に夢中になった。彼女と男女の関係だった訳じゃない。ただ拓海はこれからの人生をその女性と過ごしたい、一時も離れたくないと言っていた。それまで抱いていた夢も、そのための進路もすべてなげうって、彼女と暮らすと言っていた。俺は……」

結城はそこで少し言いよどむ。
それから意を決したように再び話だした。


「当時大学受験を控えていた。俺は今よりもずっと内向的で、友人と言えるのは拓海だけだった。付き合っていた彼女はいたけれど、告白されたから付き合っただけで特別な感情は何もなかった。十代は女性の身体に夢中になるころだし、純粋にセックスするためだけに付き合ってたんだ」


「幼い頃からずっと、拓海と一緒だった。社交的じゃない自分の、拓海は社会との唯一の接点だった。拓海に特別な人ができて、俺はむなしさに襲われた。自分が……」

結城が唇を噛んだ。


「自分が拓海にとって特別な人でありたいと願っていたことに、そのとき初めて気づいたんだ。拓海のいない人生を想像してみたけれど無理だった。拓海がいなければ何もできないと、何の意味もないとまで思い詰めた。今思い返すと……拓海に執着していただけなんだと分かるけれど、当時は真剣だった。十代の未熟な感情と表現で、説明をつけられることじゃなかった。俺はゲイなんじゃないかとも考えてみたけれど、他の男性に興味があるということはまったくなかった。拓海だけ。本当にあいつだけに、執着してた」


「俺は拓海にこの感情を気づかれる前に、死んでしまおうと思った。それが一番楽で、心地の良いことだと思ったんだ。ある夏の日、俺はカーテンレールに紐を通して、首を吊った。痛みと苦しさと、そして解放……でも、拓海に見つかってしまった。あいつが俺の首の紐を切り、救急車を呼んだ」


「生と死の狭間で、あいつには決して知られてはいけないことを、思わず口に出してしまった。『お前がいなきゃ生きている意味がない』と」


結城は目を閉じる。
当時を思い出しているようだ。
苦しみに眉をしかめる。


「あのときの拓海の顔。軽蔑や嫌悪じゃなかった。戸惑いと……謝罪が見えた」


「病院を退院すると、拓海は案の定俺と距離を取り出した。もう以前のように笑い合ったり、冗談を言ったりできるような間柄ではなくなっていた。俺は自分自身を罪深くて、汚いもののように思えた。あの拓海の顔に見えた表情が忘れられなくて。自分を責めて、罵って、それから泣いた」


「八方ふさがりだった。どうやっても状況を変えられない。そんな中、拓海の母親が俺を訪ねてきた。拓海は……母子家庭で、母親は拓海を溺愛してた。拓海の進路のために夜の仕事を増やすほど、拓海のために生きていた。もともとそれほど精神的に強い人ではなかったと思う。でも母親だっていう、その一点だけで生きることのできていた、そんな人だった」


「『結城くん、拓海はこれから先の人生すべてを、わたしと同じ年の女性に捧げるなんてことを言っている。本当は優しい子なのに、結城くんがつらいときにお見舞いにも行かない。あの子は今、おかしくなってるんだわ。私があの子を守らなくちゃ』」


結城はそう言うと、大きな両手で顔を覆った。
しばらく結城は黙り込む。
奈々子は静かに結城が再びしゃべりだすのを待った。


「……俺はおばさんに言った。『拓海は彼女を母親だと信じています。彼女はかつて子供を一人死なせていて、その生まれ変わりが拓海なんだと信じているんです』」

結城が顔を上げた。


「俺にはその時わかっていた。おばさんは思い詰めていて、精神的にぎりぎりのところにいることを。加えて、母親であるという存在理由を傷つけられたら、そのラインを超えてしまうだろうということも。分かっていて、わざと口にしたんだ。これで拓海とあの女性が、穏やかに過ごせなくなるだろう、そんな気持ちから」

「ほんのちょっとの悪意。人の不幸を願う心」


結城は深く溜息をついた。
目を閉じて黙る。

カーテンが風に揺れる。
秋の匂いがする。


「俺はおばさんに彼女の住んでいる場所を教えた。おばさんはうつろな表情で俺の部屋を出て行った。しばらくして、俺は不安な気持ちに我慢できなくなってきた。自分の言った言葉が恐ろしくてたまらない。拓海の部屋の明かりはずっと消えている。誰も帰ってないんだ。俺はいてもたってもいられず、太陽が沈んだ頃、その彼女の家に行った。歩いているときにも、俺は『きっとなんでもない。何もおこっていない』そうやって自分に言い聞かせ続けた」


「でも……彼女の家の前にはパトカーがとまり、慌ただしく人が出入りしていた。拓海は……拓海は地面に座り込んでいた。足を投げ出して、ぼんやりと空を見上げていた。あいつの夏服は真っ赤に染まっていた。手も、顔も、真っ赤で……」


「拓海の母親は、彼女の首をはさみできりつけたんだ。おばさんはパトカーの中で泣いていた。『ごめんなさい、こんなつもりじゃなかった』そう繰り返していた」


「俺が……あんなことを言わなければ、彼女は死なずにすんだし、おばさんも人を殺さなくてすんだ」


結城が窓の外に目をやる。
「ちょうど今ぐらいの時期。こんな風の匂いがした」


奈々子は衝撃で言葉もでない。
拓海の顔を思い出した。
そんな過去があるように見えなかった。


「人の不幸を願ったり、喜んだりすることの、恐ろしさに震えた。とりかえしのつかない過ちをしたと。拓海の母親は拘置所に入り、そこで衰弱して亡くなった。本当にあっという間だった。拓海はあの日以来、全部を失ったんだ」


「拓海はそれから精神のバランスを崩した。自分の世界に閉じこもり、ちょっとでもその世界が揺れると、我を忘れて泣きわめくようになった。アルコールやドラッグに手を出さないよう、俺はいつもあいつの側にいた。俺はかろうじて高校を卒業したが、拓海はできなかった。俺の母親は何も聞かずに、拓海と一緒に暮らすことを了承した。そしてずっと住んでいた団地を離れ、あのマンションに引っ越したんだ」


「……なんと言ったらいいか……」

奈々子は素直にそう言った。


結城は奈々子の顔を見ると、悲しそうに笑う。

「いいよ。酷い話だ」

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