ヒカリ
クリーニングの袋から出したばかりの、紺色のダッフルコートを着て、目黒のマンションまで歩く。
随分と寒くなった。
十一月も終わりに近い。
見上げると街路樹が色づいていて、足下には枯れ葉が落ちている。
夏があまりにも長過ぎて、秋はあっという間に終わってしまった気がする。
頬にあたる風は痛いほど冷たく、マフラーを巻いてこなかったことを後悔した。
今日、拓海が家を出る。
おととい、結城から電話がかかってきた。
結城の声はいつもよりずっと平坦で抑揚がない。
事務的で、それがかえって、彼の心の中を表しているように感じた。
大通りから一本道を入り、しばらく行くと赤煉瓦のマンションが見えてきた。
エントランス前に、小さめの引っ越しトラックが止まっている。
ここに来るのは、今日が最後だろう。
奈々子は胸がじんじんするのが、寒さのせいなのか、他の何かなのかわからなかった。
引っ越し業者が段ボールを運んでいるのが見えた。
奈々子はその様子をみながら、エレベーターで六階にあがった。
外廊下突き当たりの扉が開け放たれている。
奈々子は玄関で靴を脱ぎ「おじゃまします」と言って、部屋にはいった。
カーテンは開いており、太陽の光が入っているにも関わらず、部屋の中は、外気と変わりなく寒かった。
リビングのソファには、ダウンジャケットを着た拓海が座っていた。
奈々子の顔を見ると「おはよう」と言って笑顔を見せた。
「おはようございます。寒いですね」
奈々子はそう言うと、拓海の側に立った。
「うん、ごめんね。荷物を外に運び終わるまで、玄関開けっ放しなんだ。結城はちょっと買い物に出てる。すぐ帰ってくるよ」
「ゆきさんは、新居で待ってらっしゃるんですか?」
「うん。部屋を掃除してるって。ここ座る?」
拓海はソファの隣を指し示した。
「ありがとうございます」
奈々子は素直に腰を下ろした。
「なんか温かいものでも入れようか」
「大丈夫ですよ」
奈々子は笑顔で返した。
「奈々子さん」
「はい」
「結城をよろしく」
「はい」
拓海は安心したように、ほっと息をついた。
「これで最後ですか?」
青い作業着を着た引っ越し業者の青年が、段ボールを抱えて訊ねる。
「はい、そうです」
拓海は頷くと、立ち上がった。
「さあ、行こうかな」
拓海はいつもの布鞄を肩からさげると、ぐるりと部屋を見回した。
その顔は晴れやかで、結城の寂しさとは対照的のような気がした。
「もう行く?」
いつのまにか結城がリビングの扉のところに立っている。
手にはコンビニの袋を下げていた。
「うん」
拓海は頷くと、振り返らずに部屋を出て行った。
結城は奈々子の顔を見ると、無理をして笑顔をつくる。
以前ならこの笑顔を無理に、とは思わなかっただろう。
今は彼の表情が、彼の感情すべてを語っているわけではないと分かる。
玄関から出ると、奈々子は後ろから結城の手を取った。
結城が振り向いた。
奈々子は笑顔を返した。
彼の手は冷たくて、乾燥している。
コンビニの袋の中はペットボトルが二本。
今、このタイミングで買わなくてはいけないものではないだろう。