ヒカリ
二十九
彼女はしっかりとした足取りで、コンクリートの道を歩いて行く。
紺色のダッフルコート。
出会ったときよりも髪が伸びた。
ストレートの髪を両肩にたらして、背中のフードの上に、彼女の首がちらりと見える。
道の脇には吹き寄せられた枯れ葉が集まる。
時々冷たい風にのって、その枯れ葉が舞い上がる。
すべてを計画した通りにできた。
最後、一人きりになるところまで、全部。
もし相手が別れることを拒んだら、不誠実な対応をすればいい。
これまでもそうやって、たくさんの女性たちを捨てて来たのだから。
彼女の背中がどんどん小さくなっていくのが見えた。
ポケットに冷たくなった手を入れ、握りしめる。
でも彼女はそんなことをせずとも、自分から離れていった。
考えていることはすべて分かっているというように。
責めず、
怒らず、
静かに、
笑顔で、離れて行った。
計画通りなんだから、安心すればいい。
むしろ予想以上にすんなり進んだことを、喜べばいいじゃないか。
でも、彼女の後ろ姿から目が離せない。
最後に握った、彼女の手の平の温度。
晴れやかな笑顔。
別れのキスは冗談じゃなかったけど、でもしないほうが良かったんだろう。
彼女がコンビニの前をすぎ、大通りの方へと曲がる。
終わりなんだ、これで。
ふと、彼女の影が消えるその一瞬前、手のひらで頬を拭うのが見えた気がした。
泣いてる?
思わず歩き出した。
迷いながら、でも歩き出した。
そのうち走り出す。
迷いながら、
でも走って、
彼女が消えた角に向かった。
すべてが彼女にばれてしまったとき。
何もあんな約束なんかしなくても、彼女を引き止めることはできたのに。
それはわかっていたのに、思わず口に出していた。
「これから一生、君一人でいい」
あの瞬間、本当にそう思った。
冷たい空気が、身体の中にはいってくる。
渇いた風が、頬に痛い。
走って角を曲がると、彼女の紺色の背中が視界に入る。
とっさに手を伸ばして、彼女の腕を引っ張った。
彼女が振り向く。
頬が濡れていて、瞳が真っ赤になっている。
彼女が驚いて目を開いた。
「泣くぐらいなら、なんで離れようとするんだ?」
大きな声を出した。
本当に驚いている様子で、身動き一つ、呼吸一つしていない。
「このままでいいじゃないか!」
腕をつかむ手に力が入った。
彼女は一度大きく息を吸い込むと
「義務や責任感でわたしと一緒にいてほしくありません。罪悪感を感じながら、わたしに微笑むなんてことも駄目です」
と言った。
「どうしてそんな風に思うんだよ。確かに隠してたことはあった。でも奈々子さんには本当のことしかしゃべってない」
彼女は動かない。
濡れた目を見開き、顔を見続ける。
それから堪えていた涙が再び流れ出した。
「……してはいけないことだと思っても、拓海さんとわたしのどちらを愛しているのか、考えてしまうから。笑顔が、言葉が、本物なのかどうか、いつも疑ってしまう。そんな……苦しいこと……」
彼女は腕を振りほどき、口元を両手で覆って、声を出して泣き出した。
自分の身体から力が抜ける。
このまま地面に座り込んでしまいたいけれど、ビルの壁面に手をついて、なんとか身体を支えた。
愛とはなんだろう。
よくわからない。
拓海のことは愛していた。
あいつがいない世界は考えられなかったし、あいつが自分の中から消えることはない。
あいつの幸せのためには、なんだってできると思った。
じゃあ、目の前で泣いている彼女はどうだろう。
一緒にいると彼女は幸せになれないと言ってる。
彼女の幸せのために、手を離すことができるのか?
「本当に終わりにするしかないんだな……」
溜息のような言葉が出た。
彼女はうつむいて、
それから「ごめんなさい」と言った。
力が出ない。
彼女は背を向けて、再び歩き出す。
その背中を目で追う気力もない。
壁にもたれかかり、そのままずるずると座り込んだ。
コンクリートが背中に冷たい。
たてた膝の上に腕を置き、ぼんやりと正面をみつめた。
彼女を愛しているのか、そんなことわからない。
失いたくない。
それだけ。
拓海を思うのとはまったく違う。
どんなことをしても、彼女を失いたくなかった。
ふと気配を感じて顔をあげた。
彼女がいる。
側に膝まづく。
心配そうに見つめる。
「あの……」
彼女が何かを言いかける。
無意識に彼女の頬に手をふれた。
「自分のために生きていいんだよね」
彼女は黙ってみつめる。
「失いたくない。僕の人生には君が必要だ」
彼女の頬は暖かい。
「僕を幸せにして」
彼女が僕の顔を見つめる。
それから小さく微笑んだ。
たったそれだけのことが、こんなにも心を満たす。
彼女を引き寄せて、胸に抱いた。
彼女は僕の特別な人。
【完】