ヒカリ


なんだか後半は、結城の言葉があまり耳に入らなかった。


なにせ奈々子はまだ誰とも付き合ったことがない。
正直に言えば、キスだってまだだ。
二十六歳なのに、と思うけれど、チャンスがなかったのだ。
こればかりはしょうがない。


「ごちそうさまでした」
奈々子はマンションエントランスでお辞儀をした。


ワインを少し飲み過ぎたようだ。
ちょっと足がふらついた。
ここは目黒。
家までは遠い。


「駅まであるいて、タクシーをひろうよ。その間に少し酔いも冷める」
結城はそう言うと、再び奈々子の手を取り歩き出した。


駅に続く大通りには、たくさんの車が走ってる。
深夜にも関わらず、多くの人たちが歩道を歩いている。
見上げると真っ暗で、星など一つも見えない。
実家近くの空とは大違いだ。
日中の暑さは遠のき、今は涼しい風が吹いている。
排気ガスの匂いと、歩道に植えられた木々のかおり。

東京の夜だ。


「ねえ」
結城が奈々子に声をかける。

「はい?」
奈々子は結城を見上げた。

「キスしてみようと思うんだけど、いいかな?」


奈々子の心臓がびっくりして、ひっくり返ったようだ。

驚いて立ち止まる。


結城は奈々子の腰を引き寄せ
「確かめたいし」
と言った。

「な、何を?」
奈々子は身体を反らして、結城から離れようとした。

「う……ん。なんだろう?」
結城が首を傾げる。

「まったく訳がわからないんですが」
奈々子は身体をさらにそらす。

「ま、いっか」

「よくないです」


結城は笑みを浮かべ、奈々子の瞳を覗き込む。
奈々子は卒倒しそうだ。


「嫌ならしない」

「い、嫌です!」
奈々子は大きな声でいった。


結城の腕がゆるみ、奈々子の身体が少し自由になる。

「なんで?」


「あ、あの、須賀さんのことを、なんていうか、好きでもないし」
奈々子は言ってから後悔するが、どうにもならない。

「好きでもない人とは、キスしたりしないもんです。須賀さんとは違います!」

「……わかった」
結城はそう言うと「ごめんね」と言って、あっさり引き下がった。


奈々子は拍子抜けして、大きな溜息をついた。


そのまま駅まで黙って歩く。
ロータリーでタクシーをひろうと、結城は行き先を告げ、料金を事前に支払った。


「今日はどうもありがとう。おやすみ」
結城はそう言うと完璧な笑顔で奈々子を見送る。


奈々子は先ほどの衝撃からまだ立ち直っていない。
やっと会釈だけすると車は発進した。


しばらく走ってからやっと、奈々子はまともに呼吸できるようになってきた。


今夜も眠れないな。


奈々子は先ほどの出来事を繰り返し頭の中で再生させながら、家路についた。

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