君の温もりを知る
当時の俺は、よくこんな夢を見た。
薄暗く、心細い思い出。
二度と味わいたくなんかないのに、
二度と、そんな思いしたくないのに。
まるで自分に、
忘れるな。逃げるな。
そう言い聞かせるように、
俺は何度も何度もしつこいくらいに、
その光景を、夢に見た。
『ただいま、母ちゃん!』
ーーーあれ?
いつもみたいな返事がない。
弟達の声も、聞こえない。
むしろ、それどころの話しじゃない。
この家からは、一切の音が消えていた。
『なあ、今日病院の日じゃないよな?』
二人目の弟を妊娠している母ちゃんは
大方の買い物はお隣のばあちゃんが
引き受けてくれているから、
産婦人科以外への外出はそうそうない。
ーーーなのに、なんでだ…?
なんで、この家のどこにもいねえんだ。
『母ちゃん!…母ちゃん!』
あんたが今いないってことは、ほら、
そういうことなんだろ…?
聞いてくれよ。今日、長距離走で
一番とったんだぜ、俺。
やらかしたと思った算数のテストも、
98点だった。もちろん、クラス一番だ。
ーーーほら、他にもいっぱい…
いっぱい、"あの人"に話したいことが…
『明日ちゃん』
不意に後ろから声をかけられる。
それは見慣れた、隣の家のばあちゃんで。
『明日ちゃん、落ち着いて聞きなね…』
ーーー嫌だ。いやだいやだ。
聞きたくなんか、ない。
『入院してた、お父さんがね…』
ついさっき、亡くなったそうだよ。
大好きなばあちゃんの言葉でも、
俺にとっちゃそれは…
ーーー"呪いの言葉"でしかなかった。
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「ーー明日兄ちゃん!信号青だよ!」
「あ、ああ、悪い。日馬」
信号が変わってもなかなか動かなかった
俺を心配してか、逆に俺の腕を
引っ張って横断歩道を渡って行く弟。
六歳の三男、瀬川日馬。
俺には姉が一人、弟が二人、
妹が一人の兄弟がいるが、
その誰もかれもが名前に"日"の字を持つ。
今俺の腕を引く一番年下のこいつの名前は
"日馬"と書いて、"はるま"と読ませる。
俺に負けず劣らず読みずらい名前だ。
いつも通り、『通りゃんせ』の鳴り響く
横断歩道を渡り、やたら怒りっぽい
ばあさんのいる駄菓子屋の前を通り、
いつまでも新聞を郵便受けにためている
家の角を曲がれば、我が家へと帰り着く。
「ただいまー」
「日菜、洗濯物とりこんだかー?」
「おかえりー。ちゃんと取り込んだよ」
「よし、いい子だな」
「うん、だから今日も
とっても美味しいご飯にしてね」
「ああ、任せとけって」
「やったー!なら俺ゲームする!」
「待て日馬、やることがあるだろ?」
「…あ!そうだった!」
「私も行くー」
スーパーの袋を玄関に置き、
日馬を肩にかついで
廊下を進んですぐの障子を開ける。
薄暗いその和室には仏壇があって、
日馬を身籠った母さんを残して
病気でこの世を去った、
父親の遺影が飾られている。
帰ったときには、ここで線香を焚く。
それが我が家の決まりだった。
「明日兄ちゃん、さっき電話があってね。
今日お姉ちゃんも帰れないって」
「ああ、聞いた」
用を済ませて和室を出るときに、
妹の日菜はさみしそうに俺のシャツの
裾をつかんで、呟いた。
「クリスマスには皆で、ご飯が
食べられるかな?」
「……どうだろうな」
肯定できないのが、辛かった。
「そんなこと明日兄ちゃんにも
わかんないよ、日菜姉ちゃん」
「…そうだよね、明日兄ちゃんごめん」
「いいよ別に。お前ら風呂入ってこいよ。
その間に飯作っとくから。な?」
俺には話をそらすことしかできなかった。
もし俺が"父親の代わり"じゃなくて、
"本当の父親"なら、この小さな背中の
不満も不安もなにもかも、
包みこんでやれたんだろうかーーー。