ノーチェ
「……ふふっ、」
コートの袖を口元にあてて、込み上げる思い出し笑いを喉に押し戻す。
クリスマスの花屋で桐生さんに出会って、恋に落ちて。
気紛れな着信に踊らされながら、底無し沼に落ちていくように溺れて。
彼は、あたしの世界の全てだった。
呼ばれればどこに居たって何時であったって
抱かれるだけで、全てが満たされると信じてた。
――なのに、どうしてだろう。
何度も抱かれた桐生さんの温もりよりも
彼の低い声よりも
あたしの中に、今も色濃く残ってるのは
桐生さんじゃなくて
薫だった。
色のない世界で軸を失って、今日もまた迷う指があたしを弱くさせる。
『元気?』
新しくメールを作っては消して、また同じ事を繰り返す。
そしてまた、今日もメール送れないまま携帯を閉じるんだ。