少年は王都で誰と踊る
少年が目覚めて初めに感じたのは、今まで感じたことがないほどの空腹だった。
といっても、少年が空腹を感じたこと自体少年にとって初めてにあたるわけだが。
宿屋の主人がドアをノックする音に、少年はフラフラする身体を無理矢理動かしてドアを開いた。
「おはよう坊や。よく眠れたかい?」
気さくな主人は少年の頭を撫でると、階下に朝食の用意ができていることを告げて去っていった。
少年はヨロヨロと身仕度(騎士団から貰った新しい洋服)を整えると、階下に降りた。
食堂の扉をくぐると、いくつかのテーブルには既に先客がいた。
少年はその中の一人に見覚えがあり、小さな吐息を吐いた。
「おはよう、少年」
ハイネスだ。
少年は渋々彼の向かいに腰を下ろすと、ハイネスの隣に座る女性に視線を移した。
「ローナだ。彼女がお前の護衛を担当する。仲良くな」
「よろしく、少年」
ローナは燃えるような赤髪と対照的な深い青色の瞳が特徴的な美女だった。
重々しい甲冑すら彼女の美しさを際だたせるアクセサリーの様で、少年も思わず見とれた。
「…まぁ、よろしく。それよりボク、お腹空いたんだけど」
少年がぶっきらぼうに言うと、ローナは微笑んだ。
「すまなかった、ハイネス上官は少々仕事熱心すぎるところがあるが、根はいい方なんだ。許してやってくれ」
「聞こえているぞローナ」
少年が呆れたように二人のやりとりを眺めていると、宿屋の主人が料理を運んできた。
焼きたてのパンや色とりどりの野菜や豆を使ったサラダ、甘い香りが立ち上る紅茶。
少年のお腹が情けない悲鳴を上げるのも無理はない。
宿屋の主人が丹誠込めて作ってくれた料理は、少年の身体に染み入るように活力を与えてくれた。
初めて食べるものに、純粋に感動しながら黙々と食べ進めていると、ローナが小さく笑った。
「少年、食べこぼしている。パンは逃げないからゆっくり食べなさい」
ローナの言い方にどこか懐かしさと切なさが思い起こされる。
自分にも、親や兄弟がいたのだろうか。ふと、そんな切なさがこみ上げてくる。
そんな少年の心など知る由もないハイネスは、少年が粗方空腹を満たしたと判断したのか話し始めた。
「今日出向いたのは他でもない。ローナを紹介するのはもちろんだが、お前を便宜的に呼ぶための名前を決めようと思ってな」
「名前?」
「そうだ。調査のために騎士団に召還される事もあるし、いつまでも名無しでは困るだろうしな」
「そうかなぁ」
「それとも何か?名前は思い出したか?」
少年はそこで、少し考える素振りを見せー…ややあって首を横に振った。
「…では、これが名前のリストだ」
そう言ってハイネスが取り出したのは、実に数十枚の紙に書かれた名前のリストだった。
「えぇ…」
「な?仕事熱心すぎるところがあると言っただろう」
ローナが可笑しそうに笑うと、ハイネスは不服そうに顔をしかめた。
「上官、こういうのはその人を思ってつけないとダメですよ。そんなことじゃ、奥様にまた叱られますよ」
まさか自分の子供にも、この膨大な量の名前リストから名前を付けようとしたのか。
少年は口角をひきつらせながらハイネスを見つめた。
「そうねぇ…呼びやすくて覚えやすく、親しみのある名前。そんなのがいいのでは?」
ローナのもっともらしい提案に、少年も頷く。
ハイネスは難しい顔をしてリストと少年とを見比べると、困ったように笑った。
「わかったよ。そうだな…ルクス、なんてどうだ」
「ルクス?」
少年が不思議そうに首を傾げると、ハイネスは照れ臭そうに俯いた。
「息子が出来たら…つけようと思っていた名前だ。私が思いつく中で最高の名前だと思う」
そんな大切なものを、もらう価値が自分にあるのか。少年はなんと答えるべきか思案した。
「上官は、よろしいので?」
「ああ。少しひねてはいるが、彼は悪い子ではないだろう。生まれたのは娘だったし、この名前も彼に使って貰えれば幸せだろう」
「でも…」
ローナとハイネスの会話に、少年は困惑して俯いた。
「上官が構わないと言っているんだから、お借りしたらどうだ?本当の名前が決まるまでの間」
ローナの言葉に、少年はしばらくしてから頷いた。
ハイネスも安堵したように微笑むと、最早用済みになった名前リストを懐にしまった。
「では、ルクス。改めてよろしく。明日、また幾つかの書類にサインが必要になるが…そう時間は取らせないさ。今日はローナに街の案内でもしてもらってゆっくり過ごすといい」
ハイネスはそれだけ言うと、宿屋の主人と二、三言話して食堂を出て行った。
ローナは立ち去る上司を礼儀正しく見送り、その姿が見えなくなると少年ー…ルクスの目の前に座り直した。
「さて。ルクス、君はこの街をまだ歩いていないだろ?今日は必要な物をそろえがてら、観光でもしないか」
「ボクは特に興味ないけど…」
「いいから。色々と役に立つこともある」
何がだ、と余計なことは差し挟まない。
まがりなりにも騎士団に世話になっている身だし、下手に反抗するのも得策ではないと判断した。
「じゃあ、少しなら」
ルクスの言葉に、ローナは満足げに頷いた。