不埒な騎士の口づけは蜜よりも甘く
踵を返す。
どこにいるの。もう、あなたはいないの?
人気のない廊下を、駆けた。
どこに向かっているかも、どこへ向かおうとしているかも分からなかった。
まだ本人に直接伝えてはいないのだ。
好きだ、と言っていないのだ。
口にするのも許されない想いだと分かってはいるけれど、あんな手紙を、あんな花を贈られたあとでどうしてこのまま黙っていることができようか。
先に掟を破ったのは、貴方の方よ、ディラン。
あなただけわたくしに想いを伝えて、ひとりで勝手に終わらせて、わたくしはこんなに消化不良のままで。
いつも、振り回されてばかり。
息が上がる。
走って、脇腹が痛くて、脚は疲れてへとへとで、前髪は汗で張り付くし、本当お姫様なんかほど遠い。それでも視線だけは彼を探していた。
「置いて行かないで……」
掠れた声が、口から洩れる。
置いて行かないでよ
わたくしの気持ちを、わたくしごと。
「一度でいいから……っ」
わたくしの気持ちを、受け入れてよ。
気付くと、バラ園に来ていた。
へとへとになって、地面にぺたんと膝をつく。
むせ返るようなバラの香が鼻腔をくすぐる。肩で息をして、乱れた呼吸を整えようとする。
もう、タイムリミットだと分かっていた。時刻は日付を跨いでから一刻は過ぎているだろう。早く寝ないと明日の式に響く――、そう思ってどうにか腰を上げようとする。
そのとき、後ろからがさりと草木を分ける音がする。反射的に振り向く。もしかして。
「ディラン!?」
しかし、そこにいたのはかつての騎士ではなかった。その姿に、わたくしは目を見開く。ディラン以上に何故ここにいるか分からない人物がわたくしを見下ろしていた。
「ラフィン……さま」
茫然とした声が、しんとした夜の帳に落ちていく。
しかし彼は、特に驚いた様子を見せなかった。そのかわり月の光が彼を照らし、その光でかすかに煌めく瞳がとてつもなく深い色を宿していたことに、息を呑んだ。
美しい亜麻色の髪、少しつり目がちの茶に近いくらい濃い緑の瞳。顰められた眉は、それすら彼の美しい魅力を引き立てていた。まるで一枚の絵画のように美しく、……そして切ない。
いつもの賑やかな彼の影はそこになく、あるのは憂いを帯びたひとりの男の姿だった。
「……本当に、久しい。まさかここでお会いできるとは、アウーラ」
その声、姿、そして月。全てに既視感を抱いた。
こんなことが昔もあった。
……どうして、忘れていたのだろう。