メロディフラッグ
初めて汀が時任のピアノ教室を訪れたとき、丁度次郎のレッスンがあっていた。

チャイムの不躾な機械音に、手がとまる。時任はやわらかく笑って、ちょっとごめんねと云い席を立った。
次郎は集中力がぷつんと途切れてしまい、でたらめに音をあそばせた。次郎にとって、聞く人のいない演奏は意味をもたなかった。

次郎にとって、ピアノは手段にしかすぎなかったのだ。



五分ほどして、時任がレッスン室に戻ってきた。彼の後ろに、柔らかそうな栗毛がのぞいた。


「巽くん、レッスンを見学させても構わないかな?」

時任はいつだって柔らかな物腰で話す。

「はあ、構わないですけど」


「いいってさ。さあ、そちらに腰かけて。彼はね、巽次郎くんといって、まだ高校生なんだけど、実にいい演奏をするんだ」

時任は自分のことのように、嬉しそうに云った。

「彼女、表の看板見て来てくれたんだって。名前は、成海汀さん」
表の看板を見て。どんな物好きかと思い、次郎はそちらをちらりとうかがう。

柔らかそうな栗毛がゆるく波をえがく。少し眠そうにも見える垂れ目が印象的だ。
汀は次郎と目があうと、にこりと笑って会釈した。つられて次郎も頭を下げる。



「じゃあ、続きからいこうか」

時任が促した。次郎は小さく身震いした。


観客は多ければ多いほど、いい。







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