ひとりぼっちの
白身は



妻から電話が掛かってきたのは、帰宅後のことであった。電話に出てみれば、開口一番「アンタ、生きてる?」なのだから変わらないというか何というか。
私はテレビの電源をつけて、鳥籠の前に立つ。腰付近までの高さのタンスなので、自然とそれを見下ろす形になったが、矢張りそれは卵のままだ。孵化でもしていたならば笑えたかもしれないというのに。

「ねえ、あいつはどう?」

息子のことだろうか、と察するが、最近は会話らしい会話をしていないのであまりよく分からない。

「ああ、まあ」
「なんもないの?」
「んー、ああ、まあ」
「なによ。その濁った返事は」

君のが濁った質問なんだから仕方ないじゃないか、とは言えない。してないと言われればしてないし、していると言われればしているのだ。

「なんか変わったことは?最近、大丈夫?」
「えーと」

鳥籠を見つめる。悟りを開いた仏像みたいに鎮座しているものだから、卵が世界を達観しているようにも見える。南無、と呟いてしまいそうだ。卵宗教は意外にも在りそうだから洒落にならない。

「鳥籠をさ」
「え?鳥買ったの?買うの?」

元妻の声が明るくなる。そういえば、彼女は生き物全般が好きだった。芋虫にキスしていたときは若干引いたが。

「いや。なんというか」

卵を飼ってるんだ。と言い掛けたところで、自分の常識が叱咤してくる。唾を散らしながら、肩を鷲付かんで。

遂に狂ったかと思われるぞ!

それはならない、と私が答えに迷っていたところで彼女は閃いたのか、声を弾ませた。

「ああ、だから!鳥の声が聞こえるのね」
「え?」

私は瞬きをする。彼女の言葉の真意を飲み込めなくて、え?と再び口に出す。

「どんな声?」
「はあ?ちゅんちゅん、ってかんじの」

鳥籠の中の卵は沈黙している、はずだのに。私の五感がおかしかったのか。卵イコール鳥だという仮説が事実であったのか。

「いや、だからどんな種類の」
「あんたね。私が生き物好きだからって全部のこと知ってるわけがないんだから」
「でも君は──」

呆れを含んだ目をした妻を想像の中で思い描く。息子に似た目を細めて、仁王立って、腕を組む。彼女は大きく息を吐くと、声を放った。

「それだから、あなたはだめなのよ。卵を卵って呼んで、その用途を決めつけてるようなものよ。私のことだって、名前で呼んだことなかったじゃない。妻でしかなかったでしょう。
そうでしょう。絶対に、そうなのよ。
けれど、もしかしたら卵だって、空を飛べたかもしれないじゃない」

卵の話題を持ってくるだなんて。私は動揺し、鳥籠の中の卵を見つめる。妻と息子が手を組んでドッキリでも仕掛けているのだろうか。それにしては、妻の声のトーンは真剣であるし、息子は平生通り過ぎる。

「でも、卵は空なんか飛べない」
「だから喩えだってば。そうやって決めつけるからあなたはダメなのよ」
「君は、妻でなかったの?」

暫くの合間の後、電話の向こうから、女の人の「ただいま、恵理香ーかえったよー」という元気な声が聞こえてきた。それから、その声が「電話中?」と控えめなものに変わる。

「あー、そうね。でも私は恵理香がよかったのよ」

元妻は早口にそう言い終えると、じゃあね、と会話を締めて電話を切った。電子音が静かな室内に余韻を残す。私は受話器を耳から離すと、視線をふとテレビに向ける。“鳥特集”というテロップを掲げる動物番組を見て、不思議の感に打たれて唇を歪める。テレビの中の鳥が、ちゅんちゅんと元気に鳴いている。


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