ひとりぼっちの
わたしは
「センパイ。おはよーございます」
部下に挨拶されて、軽く会釈する。今日は外回りの日だ。溜め息を吐いて、自分の席へ向かう。パソコンを起動させても、冒険への扉は開かない。椅子に深く腰掛けて目を瞑る。目の奥が鈍く痛んだ。
「だいじょうぶっスか?」
声を掛けられて、私は顔をあげた。茶髪の部下が犬みたく笑った。彼の笑顔は女性社員達の癒しであるらしい。飲み会の度に彼の隣席は争奪戦になる。けれど、男からの嫉妬は驚くほどに少ない。営業もできる。本当、おそろしい部下である。
「ああ、ちょっといろいろと悩み事がね」
「体調には気をつけてくださいよ。これ、先日頼まれていたK会社の資料です。それと、これはお茶です」
机の上に置かれたお茶と資料。私は資料を手に取ると、ざっと目を通した。見易くて、要点が上手く纏められている。一瞬だけ“卵”という字を見たような気がしたのだが、よくよく見ると“柳”だった。これは相当、神経がまいっている。
「うん。これでいいよ」
「そうですか。失礼します」
部下が珍しく不服そうな物言いをしたので、私はふと顔を上げた。彼は仄暗い目で私を見つめたまま、口だけを動かした。妙な耳なりがする。気味の悪い表情。真っ黒い空洞が、口の中から覗いていた。
「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ。と、かの有名な村上春樹は述べています。ここで、卵は軟弱なただの卵だと決めつけるからダメなのです。卵がもし、鳥のように美しく鳴けたなら、誰も卵を不用意に扱ったりはしないでしょう。もしかしたら、壁だってその声を聴き、とろけるほど優しくなるやもしれません」
彼は唄うように、朗らかに言葉を連ねる。
「けれど、誰かさんはそれを卵だと決め付けて、何も考えず卵を壁にぶつけてしまうのです。安直で短絡な思考によって、卵の用途はオムレツだと決め付けているのです。あの殻の中は見えやしないのに。中身は黄身と白身だと勝手に決め付けているのです。もしかしたら宇宙かもしれないのに!もしかしたら黄金や、広大な空、麗しい美女かもしれないのに!」
そうでしょう。いや、絶対にそうなのよ。
「ああ、なんて哀れ。哀れな卵」
言い切ると、部下は口を閉じた。私は何も言う事が出来ずに目線を泳がせる。彼は仕事のストレスで頭でも狂ったのだろうか。どう対処すべきだろうか。
悩む私の様子を見て、彼は何も言わずに自分のデスクへと向かった。私は思わず声を発した。
「おいっ」彼の背中にぶつかった声が、なさけなく地面に落ちる。
「あ、はい。なんですか?何か不備が?」
「西山君。お茶、ありがとう」
私が言うと、西山君は嬉しそうに頬を緩めた。先程までの雰囲気はどこにもない。錯覚だろうか、と疑ってしまうほどに。
「いえ。用意していてくれたもんを拝借しただけですから。僕は何も」
「そうか」
「あの、今度のみに行きません?」
返答に困っていると、彼が僅かに焦り出す。その様は耳の垂れた犬を連想させた。
「いや、あの、あまりセンパイのこと知らないんで。なんとなく──だめですか?」
「いや、かまわないが」
相談に乗るための、調度良い口実になる。
「まじっすか!また連絡します」
喜ぶ彼を見て、私は尋ねる。先程の彼は村上春樹の言葉を引用していた。相当に好きなのかもしれない。
「西山くんは、村上春樹が好きなの?」
「あ、村上春樹っスか?」
彼は照れたように頭を掻いた。
「オレ天の邪鬼なんで、前々から読もうとはしてたんスけど、手出せなくなったんスよ。流行っちゃったでしょ、彼。だから全然知らなくって」
「え?でも、卵の、」
「は?」
「いや」私は口籠もる。「何でもない」
私の目が無意識に自分の鞄の中へと引っ張られる。たくさんの資料と、電車内で読むための本が入れられている。その本の作者は───。
「あ、センパイ、村上春樹好きなんスか」
私の視線を辿った西山が、笑った。