偽りの愛は深緑に染まる
とりあえず寝てから考えよう。
帰巣本能を頼りに帰宅し、靴を揃えることもせずに吸い込まれるように部屋へ入った。荷物をどさっと置いて、上着だけを脱いでベッドに倒れこんだ。
しかしその考えは甘かったと、布団に入ってすぐに気づいた。目を閉じたとたん、梨沙の頭の中で思考が暴走し始めた。あれこれ思い出してはじたばたしたくなったり、心臓がどきどきして止まらなかったりと、忙しすぎる。とても寝るどころではない。
とうとうむくりと上体を起こし、ベッドから降りる。
寝不足でフラフラしながらテーブルの前に座ってしばらくうつむいていた。

「とりあえず身にしみて分かったことは、光流さんがとっても怖い人だってこと……」

温和で、常に梨沙を気遣ってくれる完璧な男性だった彼が、突然あらわにした___絶対的な支配者のような貌。
確かに彼は大企業の社長で、自らの力で立ち上げた会社を今の規模に育て、今の地位を築いた。超人的なリーダーシップを持っているのは間違いないだろう。
そうだ、私と彼の関係はあくまで契約の上に成り立つものだ。彼は私に対価を支払い、私は彼に恋人としての時間を提供する。その時間の中で他の男のことを考えて上の空になるなんて___それは完全に愛人失格だ。

「そうね、悪いのは私……」

そこは間違い無いのだが、引っかかるものがある。光流さんがあそこまで怒った原動力が何なのかわからないのだ。
私たちの関係には、愛があるとは言えない。もちろん短くはない付き合いではあるからそれなりの情のようなものはあるが、梨沙はあくまで愛人としての自覚を持って割り切っている。よくある恋愛ドラマのように、付き合いを続けるうちに本当に好きになってしまう……なんてことは、ない。それは嘘ではない。
光流さんも同じだと思っていた。しかし、昨夜のあれはまるで…

「私のことを好きみたい……」

自分で思って、なんて自惚れてるのかとバカにしたくなる。そうだこれは、都合の良い解釈に過ぎない。
例えば私のことを、所有物とみなしているというふうに考えられないだろうか? 彼は自分自身に高いプライドを持っている。そんな自分が捕まえた愛人が、どこの馬の骨とも知れない男に心を奪われているなんて耐え難い屈辱なのではないだろうか。ちょっと性格の悪い推測だが、こちらのほうがまだ現実的に思えてくる。

「そう……きっとそうだわ。なら、二度と昨日のようなヘマは出来ない。今度やったらただじゃ済まない。一切の隙なく振る舞えるようにしないと」

正直に言って次回会うのが怖いが、逃げ出すわけにもいかない、というか、もっと恐ろしいことになる予感がする。次に会うときにはきっとまた、いつもの優しい彼に戻っているだろう。

二重人格という言葉が浮かんだ。梨沙は昨夜の、冷たい怒りをたたえてこちらを見据える顔を思い出していた。澄んだ瞳に熱いものがゆらめき、眼差しは鋭利な刃物のよう。整った顔は怒りに歪んでなお、いや一層美しい。
何より全身から発せられる、色気。
梨沙の胸が、感じたことのない苦しさとほんの少しの快感を伴って、どくんと跳ねた。

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