月夜のメティエ
「町田先生、レッスン料を取らなかったんだ。無料で教えてくれてたんだよ。帰りの電車賃もくれて」

「すごいね。なかなかできることじゃない……」

 奏真にはお母さんしか居ないことを分かっていて、お金のことを考えてくれていたんだろう。

「感謝してるよ。高校まで続いたんだ」

 本当に、面倒を見ていた町田先生もだけど、奏真の努力がすごい。ピアノが好きなんだな。

「親が離婚する前は、高校行って音大に行って、留学してとか妄想すごかったわけよ。テレビの見すぎかもしれない」

 へへっと少し寂しそうな顔をして笑った。


 テーブルのコーヒーは冷めてしまっている。奏真のもきっと冷たくなっているだろう。

「現実はそんなに甘くない」

 声のトーンが変わる。
 コーヒーの置かれたテーブル、テレビ。ブラウンの皮ソファ。そのソファに奏真は体を預けた。きゅっという音が鳴る。

「音大に行くのには金がかかる。母さんにこれ以上苦労はかけられない。大学には行かなかったんだ。大人になるにつれて分かるじゃん、そういうの」

 才能があっても、なかなか道が開けない人も居る。才能に状況が味方しない。奏真は、ピアノの先生達に認められていても、状況が味方になってくれなかったのだ。

「高校卒業して働きながらピアノ弾いてたけど、趣味になってたっていうか……つまらなくて。町田教室を辞めたよ。ピアノを1年くらい弾かなかった時期があった。なんか、目標も無くちゃってさ……」

 好きなピアノを弾ける状況じゃなくなった。奏真のため息は切なくて、高校から卒業して先の自分に悩む10代後半の彼を見ているようだった。

「そしたらある日、町田先生から連絡が来て、またピアノやらない? って」

 奏真は、コーヒーの入ったマグを取った。ひとくち飲む。

「子供のピアノ講師やらないかって。それが、あの音楽教室。紹介されたんだ。やっぱりピアノから離れられなかった」

「町田先生は、どこまでも奏真を認めてくれてるんだね」

「本当に、感謝してるよ。だから続けられてるんだ」


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