月夜のメティエ

「控え持ってないのか」

 受話器を置くか置かないかのタイミングで、遠坂部長がそう言ってきた。

「情けない。控え無いので分かりませんだと? なんでそうなるんだ。あそこの現場所長は気難しいんだから、なるべく言われた通りにしないと、次が無くなるぞ」

 イライラした遠坂部長の声が耳障りだ。

「カズヨ先輩からなにも聞いていなくって……控えも無いし、データも……」

 返答しながら、共有ファイルを覗いてみたけど、それらしいものが見当たらなかった。参った。お腹痛いわ。

「営業の方にもたぶん連絡入るんだろ。用意だけしとけ。明日朝イチで出来るよう、営業と打ち合わせしといて」

「はい」

 自分の担当ではないけど、かと言って他にできる人が居ない。新人くんじゃ無理。


「ったくよー。体調不良の休みって、妊娠でもしてんじゃねーのか? カズヨちゃん」

 こういうデリカシーの無いことを言うのは、この遠坂部長はいつものことだ。

「妊娠したら辞めて貰うからな」

 カズヨ先輩が居なくて良かったかもしれない。あたしに言われたんだったら、また泣くためにトイレに駆け込んでいたかも。もしかしたら既に本人に言っているかもしれないけど。どうしてこういうことを言うんだろうか、この部長は。会社を守る為とはいえ……。

「もう結婚したんだからいつ辞めても良いんだよな。突然言われるのも会社としては迷惑だから、もう辞める方向で良いんだけど」

 酷い話。女性社員をこういう風に思ってる人が上司だなんて。

「カズヨ先輩は、良い人だと思います。居なくてはいけない人で……」

「会社にはな、居なくてはならない人なんていらないんだよ。誰が居なくても業務が滞りなく遂行していかないといけない。それが会社ってもんだ」

「でも、がんばってます。教えるのうまいし、よく気が付いて、仕事できますし……」

 そう。カズヨ先輩は丁寧で仕事ができる女性だ。あたしは憧れる。美人で仕事できて、結婚してて。次にすぐ課長になるのはカズヨ先輩だろうと営業も言っていた。

「誰々さんが居ないとこの仕事はダメです、なんていうのは、企業として破綻してんだよ」

 ひねくれた部長も、居ても居なくても良いと思います。あたしは心の中でそう言った。

「女は、自分1人でやれるようになると扱いにくくなるんだ。使い辛いんだよ」

 いちいちカチンと来ることを言わないでよ。まったく。あたし達が言い返さないのを良いことに。自分だって娘が居るくせに。
 ムカムカするのを抑えつつ、ふうとため息をついた。こんなの聞いててもプラスにならない。聞き流そう。

「結婚したら辞めるのかなー。カズヨちゃん居ないと困るよ」

 営業課の人達がそう言ってるのを、立ち聞きしたことがある。実際、カズヨ先輩は結婚しても辞めていないけれど。「あのキレやすい部長こそいらねーよな。経費にうるさいし」という陰口も聞いたことがある。
 人の上に立つ人が、人間的に優れているかと言えば、そうじゃないってことだ。

 気を取り直して、あたしはパソコンに向かって座り直した。

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