月夜のメティエ
気を取り直して「ICHIRO」へ向かう。木製のドア、ひんやりと手に冷たい真鍮のドアノブ。回して静かに開けた。
「……あ」
聞こえてきたのは、ピアノの音。CDじゃない、生演奏だ。
これは、アニメソング。有名な、魔女の修行をする女の子のアニメ……良いなぁ。これピアノで弾くとこんな感じなんだ。とても素敵。邪魔にならず静かに、でもよく聞こえる。
「いらっしゃいませ」
メガネをかけたマスターらしき人が、声をかけてくれる。少し入って奥を見ると、ピアノが見え、弾いている横顔が見える。……奏真だ。
ポロロン、ポロロン。優しい音色。10年以上前に聞いた奏真の音は、居なくなってから、夢でしか聞けなかった。それが、いま目の前で。動けなかった。
「カウンター空いてますよ。テーブルもあるけど」
「あ、じゃあカウンターで……」
こういう店、来たこと無い。ましてや1人じゃ絶対来ない。カウンターの中から、さっきのメガネの男性が微笑みかけてくれる。
カウンターがあって、テーブル席が10ほどあるだろうか。わりと広かった。地下にこんな風な空間があるなんて、素敵だな。テーブル席はソファーで、落ち着いた雰囲気。ちょっと薄暗いから転んでしまいそう。
静かにカウンターの一番端に座る。カウンター席は6人ほど座れて、1人しか居なかったんだけど、なんだか真ん中とかに行けなかった。先客はメガネのマスターと話している。
「お飲物、何にします?」
物腰柔らかなメガネのマスターが、こちらへ来た。じっと奥のピアノを見ていたあたしは、ハッとする。
「あ……じゃあビール、ください。あとナッツとか」
居酒屋なんかが性に合ってる。会社の接待で行くのは居酒屋個室、お姉ちゃんが居るスナックとかだ。プライベートでもこういう場所に来ないもの。
しばらくして小さい木の器にアーモンドやピーナッツが入ったものと、ビールが来た。焼き鳥……食べたい。
店内は半分くらいの客入りだった。それぞれ話したり、1人で来ている人も。カップルとか夫婦とかそれ以外とか。ピアノをじっと聞いてるのはあたしだけなもんだった。
「お一人なの?」
マスターが静かに、でも聞き取りやすい声で話しかけてきてくれた。
「はい。一見なんですけど」
「大歓迎ですよ」
手を口にやり、ウフフという感じで笑ったメガネマスター。勝手にそう名付けたけど、きっとマスターなんだろうな。そんで、ウフフということはきっとオネエ。そうじゃなかったら悪いので言わない。