月夜のメティエ
「あの……あたし、ピアノ聞きに来て……」

「ああ、あなたが。奏真くんから聞いてるわ」

 メガネマスター、黙ってればいい男なのに。40代かなぁ。白いシャツに黒いギャルソンエプロン。黒い髪は少しクセがあるようで、細身で清潔な営業マンっていう感じ。さりげなくおしゃれな黒縁メガネがとても似合っている。でもどうやらあたしの中ではオネエ決定だ。分からないけど。話し方がそうなだけで、実は格闘技とかやってるかもしれない。……格闘技?

「女の子の友達が来るって言ってたから」

「そうなんですか」

「可愛い子だわぁ」

 メガネマスター(オネエ)が目を細めて言う。

 お世辞でも、そう言われて嬉しくてエヘヘと照れ笑いが出る。その会話の最中も、奏真のピアノは耳を楽しませてくれる。本当は会話をしないで聞いていたいんだけど、ここはコンサートホールじゃないし、そういうわけにはいかない。

「今日の演奏って何時までなんですか?」

「ええと、いま21時ちょっと前だから……あと30分くらいかな?」

 曲が終わり、間を適当に空けながら次の演奏へと進む。会話の邪魔になるくらいではなく、かといって適当に弾いているのではない。客席がピアノから数メートル離れているのも良いのかもしれない。それだけたっぷりとしたスペースがあった。奥の方だし、奏真の横顔しか見えないけど、とても楽しそうに、気持ちよさそうに弾いているのが分かる。

 ビールもとても美味しい。夕飯がまだだから、空きっ腹にアルコール。酔ってしまいそうだから、1杯だけにしよう。ナッツ類を口に放り込んで空腹感を紛らわす。ああ、焼き鳥が食べたい。
 ビールをちびちび、半分くらいまで飲んだ時、また1曲が終わった。次はなんだろう。ピーナッツを摘む。
 ポン、ポーン……。

「あ……」

 これは。

「ドビュッシー……」 

 優しく優しく、心を撫でるような、そんな音。ドビュッシーの「月の光」だった。奏真のドビュッシー、また聞けるなんて。14歳のあの頃、何度も弾いてくれた。あの曲……。

 誰も聞いていないかもしれない。ここはピアノを聞きながらお酒とお喋りを楽しむ店。ピアノのライブでもコンサートでもない。だから、ピアノだけ聞きに来る人なんか居ないかもしれない。

 それでも、あたしは奏真が演奏する姿と音に釘付けだ。ますます酔いが回りそう。

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