月夜のメティエ
「彼のピアノ、素敵よねぇ」
メガネマスターがお酒を作りながら話しかけてきた。「なんか飲む?」と聞かれたので、丁寧にお断りした。
「そうですね」
「ここで弾いて貰うようになって、2年くらいになるかしら。他の店で弾いてたからナンパしてきちゃったぁ」
キャハハと口に手をやって笑うマスター。マスターっていうかママなのか? どう呼んだら良いのか分からない。誰か教えて。
「終わったら呼んできてあげる。奏真くん、終わってからいつも飲んで帰るから」
「ありがとうございます」
せっかく来たんだもの。挨拶くらいしたいじゃない。来たっていうことを知らせて、あと帰ろう。長居する必要は無いんだから。また、聞きに来られたら良いな……くらいは思っても良いよね。本当に来るかどうかは別として。
落ち着いた木目調の店内。照明は暖かなオレンジで、とても雰囲気が良い。人の話し声とピアノの音。じっと耳を傾ければ、時間を忘れる。いつの間にか、ピアノの演奏は終わっていた。
「どーも。飲んでた?」
「1杯だけ。お疲れ様です。凄く良かった」
演奏が終わってカウンターに来た奏真は、あたしの隣に腰をかけ「俺もビールください」と言った。
「うち、ギャラがビールなのよ」
メガネマスターが言った。そうなの? 不思議に思って奏真を見ると「そんなわけない」という感じで首を振り、ビールを美味しそうに飲んだ。喉が鳴ってる。
先ほどまでカウンターに1人居たんだけど、いつの間にか帰っていたみたい。
「わざわざどうもね。何で来たの?」
「地下鉄と徒歩で。会社から歩いても良かったんだけど」
「近いんだったねそういえば。俺も電車だけど」
車で来たら、終わってから飲めないしなーと言いながら、またビールをひとくち飲んだ。もうグラスが空になりそう。
「ねぇ奏真くん。週2にしてくれないかしら。あなた目的のお客増やしたいわ」
そう言って、あたしに手を振る。なんか勘違いしてるのでは……。
「ああ、この人オカマママ。良い人だから。あと壱路ママ、この子同級生だから、俺目当ての客とかじゃないよ」
「あらま、そうなの?」
壱路ママって、この人は壱路さんていうのか。マスターじゃなくてママか。ややこしい。お店の名前がマスター……じゃなくてママのお名前なんだね。
「ちょっと奏真くん、オカマママってそんな風に言わないでくれない? オカマだけど」
壱路ママが口を尖らせた。オカマバーなわけではなさそう。さっき気付いたけど、スタッフに女性と男性1人ずつ居た。
「素敵なお店ですね。初めて来たんですけど」
「ありがとー。あなたも可愛いわ」
えへへ、なんて笑ってる場合じゃないけど。