月夜のメティエ
 また、奏真の匂い。胸が張り裂けそうで、涙も止まらないし、吐きそう。空きっ腹にビール飲むんじゃなかった。

「なんで……あらわれたんだよ相田……俺の前に」

 ビールが出そう。

「忘れようと思っていたのに……もう止められない」

「そ、う……」

 片想いでも、好きな男に抱きしめられて普通でいられるほどあたしは完璧じゃない。ふりほどいて、帰らなくちゃいけない。この人は、美帆ちゃんと結婚する。美帆ちゃんは妊娠している。あたしが居てはだめなんだ。

「なに、言って……」

 ……嘘でしょ? ちょっと待って。
 結婚相手は美帆ちゃんで、彼女は妊娠してる。奏真は結婚するんでしょう? そう思った相手なんでしょう? 目に見える景色がかすむ。

「相田のこと、忘れようと思ってたのに」

 奏真の言葉が、耳に響く。あたしの耳に奏真の唇が当たっているからだ。温かくて柔らかい感覚が、あたしの脳を揺らす。

 あたしのこと、忘れようと思ってた……? どういうこと?

「イチオンでの時間は、俺の天国だった」

 通路の壁の汚れ。その1点を見つめていた。奏真の息づかい。肩で息をしている。

「俺が先に好きになったんだぞ!」


 その先を聞くことができなかったのは、唇を塞いでいたからだ。
 あたしが、誘惑した。瞳が、あたしを映していたから。あたしを見ていたから。自分の唇で奏真の唇を塞いだ。

 コートを着ていない冷えた体は、お互いの熱を探るようにして、ますます震える。この始まりは後悔しか生まないと、気付くには遅すぎた。



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