月夜のメティエ
 ピアノも聞こえない。引き戸が外れた音も。聞こえるのは奏真の声だけ。静かな廊下。あたしと、奏真だけ。ここは、14歳だったあたし達ふたりが居た場所。

「な……」

「言っただろ、聞いてなかったのか」

 ちょっと、そんな告白……。歯が噛み合わない。なんなの、何。

「俺の方が先に……」

「だって! だから、美帆ちゃんが妊娠してるんでしょ? もうどうにもできないじゃないのよ!」

 どんなにあたしが奏真を好きだって、奏真があたしを好きでいてくれたって、どうしようもないんだよ。

「俺の話、聞いてくれ。お願いだ」

「なんの話……」

 気持ちと体がめちゃくちゃだ。あたしは今日、ここに来ちゃいけなかったし、奏真に会っちゃいけなかったんだ。本当は。なんでこういう風になるんだろう。奏真の辛そうな顔。そんな顔して欲しく無いのに。14歳の時の奏真は、あんなに真っ直ぐあたしを見ていたのに。笑顔で。

「俺じゃないんだ。……お腹の子」

 イチオンの廊下の窓からは、もうオレンジ色になった光が射し込んでいる。時間が、凍った気がした。

「父親は、俺じゃない」


 しがみつく想いが、体を突き抜けて行った。



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