月夜のメティエ
「どこからでも……ゆっくりで良いよ」
「そうだな……」
奏真の住むマンションは、ワンルーム。けっこう広い。防音設備があるのかは分からないけど、アップライトピアノが1台あった。商売道具だものね。
「中学2年の頃、うちの親の離婚が決まったんだ。理由はまぁ、仕事ばっかりの父親とすれ違いからの不仲だな。よく喧嘩してた。俺は一人っ子なんだけど……」
ゆっくり話し始めた奏真に合わせるように、部屋が暖まってきた。目の前には温かいコーヒー。あたしはコーヒーが飲めない。
「近所にあるピアノ……宮司ピアノ教室ってとこに通ってて、習ってたんだ。5歳から習ってた。で、親が離婚するから、辞めないといけないってことになって」
奏真の家はどこにあったのか。あたしはイチオンでの奏真しか知らないから、家も知らないし、授業中どんなシャープペンだったのかとか、居眠りして先生に咎められたりしてなかったかとか、好きなアニメや漫画は、とか。そういうのを知らない。
あたしが習ってたピアノ教室とは名前が違う。
「宮司先生が、ピアノを続けて欲しいって。あなたには才能があるからって。当時の俺も子供だったから、舞い上がったな。才能あるんだぁ~なんて。俺は母親に付いていくことになってたから、母さんに言ったんだ」
「うん」
奏真のお母さん。どういう人なんだろう。才能あるからと見抜いた先生も見る目があると思う。
「母さん、お金のことは心配しないで良いからピアノは続けて。あと高校にもちゃんと進みなさいって。それが条件だって」
お母さんも、奏真のピアノが好きだったんだな。そこは分かった。
「そのまま宮司先生に言ったんだ。ピアノは続けたいって。そうしたら、あたしの尊敬する恩師が居るから、そこに行きなさいって、言われた」
「宮司先生って女の先生だったんだね」
「そう。綺麗な先生だったよ。当時は」
いまはおばちゃんだろうなぁ、と笑った。ちょっと失礼じゃないのよ。
「それからすぐ、正式に親父と母さんが離婚した。……すごく悲しかったよ」
「……」
「ちょうどイチオンで相田と会った頃だ」
そうだったのか。少し悲しそうになる音も、青空が嫌いだって言ってたことも。お父さんとお母さんが一緒に居なくなること、お母さんに付いていくからお父さんと離れなくちゃいけないこと。14歳のパズルがカチカチとはまっていくような感覚があった。
「離婚して、しばらくは学校の近くのアパートに居たんだ。でも、母さんの実家が県境の方なんだけど、そっちに引っ越すことになって……」
「それで転校、か」
「そう。3年になる前に。高校のこともあったから」
そういうことだ。10年以上経って、やっと分かった転校の理由だ。
「あの……いっこ聞きたいんだけど」
「どうぞ」
少しずつ解かれていく糸がある。なんて時間がかかったんだろう。