ラベンダーと星空の約束
時計を見る度こうして、日本時間を計算する癖がついていた。
日本時間は今18時、
そろそろ夕食の時間だ。
エプロン姿でキッチンに立つ紫が脳裏に浮かび、
記憶の中から、彼女の作るだし巻き玉子の優しい味が、そっと呼び起こされた。
今頃彼女は家族の為に料理をしている。
今晩のメニューは何かな…
寒いから鍋か、それとも夏と同じく、またジンギスカンか……
雪に埋もれた極寒の地にありながらも、あの家はきっと賑やかでいつも暖かくて……
紫は自分の居場所で笑っている筈。
目の前を通り過ぎる粉雪を見ながら、富良野の冬を想う。
結局、富良野の冬を味わう事は出来なかったと…
紫の家のリビングには暖炉があった。
夏に訪れた時、その上は雑誌や領収書の束や文具など、雑多な小物の置き場と化していたけど、
今は煉瓦(レンガ)の中で、炎が赤く揺れている事だろう。
あの夏、紫のおじさんは自慢げに暖炉を叩き、
「薪の火ってぇのはいいぞ。ガスや灯油なんかとは味が違う。見せてやるから次は冬に来い」
そう言ってくれたんだ…
あの暖炉に薪が燃える所を見てみたかったな…
今となっては叶わぬ望みだが……
感傷的な気分になりかけ、窓辺から離れた。
椅子に座り直し、机上のノートパソコンに向かい、翻訳作業の続きに戻る。
今やっているのは、日本の地方紙や雑誌に載せられた、ロシアに関するコラムやルポルタージュをロシア語に翻訳する作業。
俺に仕事を与えてくれるのはアナスタシアさん。
かつて紫と見に行った『彩の写真展』の主催者、我妻ミチロウさんの奥さんだ。
我妻さんは愛称で「アーニャ」と呼び、
俺にもそう呼んでいいと許可してくれたが、
さすがに俺は遠慮して「アナスタシアさん」と呼んでいる。
写真展後のレストランで、我妻さんは妻が社長で自分は社員として、二人で小さな翻訳会社をやっていると話していたけど、
今も細々と翻訳の仕事は続いており、有り難い事に俺にもこうやって仕事を回してくれる。