隣の部屋のナポレオンー学生・春verー
「あ、はーい」
あたしは取り敢えず返事を返す。
下の階の人たちだろうか。
玄関まで行って穴を覗き込んで見る。
青っぽい黒の瞳が、ぎょろり、と穴を覗いていた。
「ぎぃやあぁぁ!」
あたしは小さく絶叫し、その場に腰を抜かした。
なに?
なに今の?
不審者かなにか?
あたしはすかさずビニール傘を手にとって、傘をバットのように構えるが、そこでドアの向こう側から声が上がった。
「緋奈子よ、大丈夫か?」
……あんたかよ。
あたしはホッと息をつき、ドアを開ける。
「なに……?」
「おい、悲鳴が聞こえたが、なにかあったのか?」
「いや、あんたに吃驚したのよ」
「我輩がなにかしたか?」
「穴から覗き込んでたでしょ。
あれ、こっちから見たら眼球だけが覗いてるみたいだから、吃驚したの」
「なるほど」
ナポレオンは悪びれず納得する。
「ところで、どうしたの」
「いや、実はだな」
ナポレオンはそこで、登山に使われていそうなリュックサックの中から、一冊の薄紅色のファイルを取り出した。
「最後の講義の時、お前が座っていた椅子の上にあったぞ。
Sone Hinako、と書かれていたから、たぶんお前のだろう」
ナポレオンがあたしに手渡してくれたファイルは、たしかにあたしが使っているものだった。
どこで落としかのだろうか、と、あたしは最後の講義後のことを回想してみた。
そういえば、ファイルを片付けようとした時、バッグの中の携帯電話が見当たらず、慌てて探していた記憶がある。
その時に、ファイルを椅子に置いたまま、その存在を忘れてしまったのかもしれない。
そして、携帯電話が見つかって安心し、ファイルのことをすっかり忘却してバイトに赴いてしまった、ということだろう。