幻想
 サロンシップでも貼付けるかのように先輩は言った。本人も満足したのか、ヤニで黄色くなった指をこすり合わせ、小狡い笑みを見せた。ある程度、年齢がいったものだけが見せる、ある種の達観した表情。
「人それぞれだと思いますけど」
 素直に胡桃は言った。だって、こんだけ人が増加すれば、人それぞれ生き方があっていい。その人本人が無意識に選択した人生なのだから。受け入れ、前に進むしかない。
 本心?
 胡桃は疑問が湧いた。ふっとへその緒辺りが疼く。その疼きは内蔵を駆け上がり、思考を司さどる脳へと辿り着いた。
 冷静になれば簡単だ。今が楽しく充実している胡桃にとって、先の事は考えられない。なにせ、今が大事なのだから。
「今が大事とか思ってるんだね」
 小狡い笑みを継続させたまま、先輩は胡桃に近づき、肩に手を置いた。「その時が来ればわかる」
 その後、先輩は辞めていった。退職理由が、匂いに疲れた、だ。ごもっともな意見だと胡桃は思った。嗅ぐのも嗅がれるのも、通年同じ環境にいることで微細な嗅覚は狂い出す。
 アロマセラピストとして独立間もない頃は、固定客を獲得するのに苦労した。しかし、その苦労を苦労とは思わず、一人ひとりのお客様の精神を癒した。最初は女性客中心だったが、女性が社会進出を果たそうが、まだまだ男性社会に変わりはない。仕事に疲れた、または人生に疲れた男性が、一時の癒しを求め、胡桃のサロンに足を向けた。ときにはセクハラまがりの言動を浴び、アロマの香料を調節する際に手を握られ交際を申し込まれることもあった。それでも、持ち前の社交性と憎めない性格を活かし、「もう女としての鮮度は落ちてるから」と自虐的とまではいかないまでも同情を誘うような言葉を男達には放った。
 そこには一種の効果がる。仄かな甘い匂いが精神を満たし、快楽を与えるなら、胡桃が一種の同情を誘うことによって、固定客がついた。いかに男という生き物が、単純なのかを知る。女の尻を追いかけ回し、口説きの段階に入り、安月給なのを隠すために、会計時はクレジットカードで良い男を演じる。従業員では見えなかった部分を、経営側に回ることで、社会の裏側を垣間みることができた。女性のお客は真摯に日頃の疲れを癒しに来ている。だが、男は違うようだ。胡桃が目当てであり、胡桃が行っている仕事には関心を持たない。
 残念。
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