幻想
 仕事中に私情を持ち込まないというのは社会人として当然のことであり、一定の精神を維持することは経営者として必須である。だが、ある日、疲労が蓄積していたのか、常連客の主婦に心境を吐露してしまった。
「はあ」
 自宅に帰ってからのいつもの癖を胡桃はアロマを調合しながら漏らした。
「あら、胡桃さん。溜め息なんかついて、らしくないわね」
 常連だる絹枝がいった。一児の母だ。毎回息子自慢をし、二日に一回はサロンに顔を出す常連である。彼女の顔には化粧が厚手のカーテンのように張られ、四一歳という年齢にそぐわない細身の体型維持努力は並大抵のものではないだろう。
「溜め息つくの、癖なんです」と胡桃は誤摩化し、「絹枝さん、たまに予約をキャンセルする日がありますけど、何か特別な用事が突発的な入るときでもあるんですか?」と話題wお変えた。
 案の上、「雨って嫌いなのよ。ご迷惑おかけしてごめんなさい。いつも突然のキャンセルに応じてくれて」と話題転換に絹枝はのった・
「贔屓にしてもらってますし」
 と胡桃は事実を述べた。
「もちろん、理由はあるにはあるのよ。でも、対したことではないの」
「対したことではない」
 と胡桃は反復した。
 理由とは起こった事象に対する解答だ。テストを解くようなものだ。何かがあれば、何かしらの解が存在する。だが人生のテストは学校のように勉強すれば、解ける、ということはない。複雑に物事は同時多発的に進行し、オリジナリティ溢れる解答を自分自身が見いださなければならない。
「女って、若い時が華よ。歳は取りたくないわ、いつも助けて欲しいって心で願ってる」 
 絹枝は指先で頬をなぞった。
 ああ、と胡桃は直感的に思った。老いだ。絹枝がどういう人生を歩んできたのかはわからない。男にちやほやされてきた人生だったのかもしれない。しかし、ある日を境に己の、老い、を自覚してしまった。胸の下落、お尻の下降線、肌の皺、鏡を見る回数は増え、それでもなんとか回復できないかと、あがきもがく。
「年相応の美しさがあると思います。それに」と胡桃は言い、「息子さんの成長が楽しみじゃないですか。将来は政治家になったりして」と絹枝をおだてた。
 その言葉にブラウンのソファーに寝そべっていた絹枝がすっと起き、「あなたも息子が政治家になると思う?」と狡猾な笑みを胡桃に向けた。
「そ、そう思います」
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