幻想
 でも、経営者というのは孤独だ。同じ境遇の立場である彼には気心を許し、甘えてしまう。既婚者というのは、どこか心に余裕もある。家族を養い、第一線で活躍しているからだろうか。ああ、ああ、ああ、の三連打は後悔しても遅い。
「なに、なになに。訳あり恋愛?」
 とご近所の噂話に加勢するように身を乗り出した。動作に迷いがなかった。
「いえ、一般的な恋愛ですよ」
「あなたね、恋愛に一般も特別も欄外もないのよ。あるのは『HELP』よ」
 ヘルプ、の発音の際に、絹枝は舌先を巻きつけるようにネイティブな発音を披露した。その直後に店内から流れる有線から、ビートルズの『HELP』が響いた。
「ほら、誰もが、心の底では助けを求める。満たされるって本来は一時的。常に助けを求めてる。恋愛はその最たる例。だから悲劇は恋愛から始まるの」
 なるほど、と胡桃は納得してしまった。
 悲劇は恋愛から。
 既に彼女にとっては悲劇の渦中にいる。海の沖合から渦潮の中心部で一人、悲劇の末路を見届け、深海に沈むのであろうか。
「社長!次の予約の方が」と受付女子。
「あら、もうそんな時間。今日はお互いの距離が縮まったわね。今度お茶でもしましょう」
 絹枝は満足気な表情を浮かべ、ブランド物のバッグを片手にサロンを後にした。その入れ替わりにやってきた予約の客は男だった。それは渦潮の中心部に引き寄せる、恭一だった。
「今日も来てしまったよ」
 安定感と安心をもたらす笑みを恭一は向けた。定期的に歯医者に通っているのだろう。煙草を吸う彼の歯列には着色はなく、着ているシャツよりも白かった。
「嬉しい」
 と甘え声を胡桃は差し出す。
「後ろ向いて」
 成すがままに胡桃は彼に背を向けた。すると胡桃の首回りに彼の手指全般が繊細に侵入し、その指先が肩口へ下降し、腰先をなぞり、止まった。
 胡桃はぞくぞくした。背後に弱い。何をされるかわからないという一種の恐怖めいた欲望。
 そして、背後からやさしく抱きしめられた。彼は焦らす。胡桃が、こうして欲しい、というポイントを知っているのだ。
 ああ、と胡桃は彼の手に触れ、天井を見上げた。
『HELP』
 が鳴り響いている。でも、まだ私は助けを必要としていない。満たされているから。

「満たされてない、というか突然別れを切り出されてわけですね」
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