幻想
 胡桃はこくりと頷く。「たかが恋愛でこんなに落ち込むなんて思わなかった」
「恋愛は栄養源ですよ。たいへんよくできました、という人生の花丸をもらうための」
 銀次は胡桃の肩に手を乗せた。気安く、自然に、安定的に。
「苦しさしかないじゃない。人を好きになるって、凄く、凄く、力と精神を使う」
 胡桃は店を臨時休業にし、逃避するめにボストンバッグを持って来た。その中から、チョコの袋を取り出し、荒々しく開封し、勢い良く口に放り込んだ。即効的に、喉が渇き、オレンジジュースのペットボトルで渇きを癒した。
「そのオレンジジュースって何パーセント?」
 花丸の真剣な表情に彼女は笑みをこぼした。
「百パーセントだけど」
「だからいいんだ」
「え?」
「だからさ」と銀次は頬をさすり、そして膝に手を置いた。「オレンジジュースも旨味を百パーセント凝縮して、胡桃ちゃんの体内に入り、運命を全うした。胡桃ちゃんも恋の旨味を全力で生き、運命を全うした。遅かれ早かれ、また新しいオレンジジュースが生まれる」
 またもや花丸は気安く胡桃の肩に手を置いた。
「あなた職業何?詩人?」
 胡桃は花丸の言い回しに刺激を受けたがおくびにも出さず訊いた。
「一般的なサラリーマンだよ。上司に怒られ、お客に怒られる。生きるために働き、つかの間の休みに女の子と出会う」
「気持ち悪い」
 と胡桃は言った。
「よく言われるし、意味もなく頬をビンタされる」
 花丸は一号車から二号車を隔てている扉付近に目を向けた。
「どうしたの?」
 胡桃も扉付近に目を向けた。そこには一人の女性が立っていた。鳩のように小ぶりな目に、乱雑にカットされたショートな黒髪が少女を彷彿とさせる。目元のブルーのアイシャドウが、どこかパンクロッカーを想起させる。その少女が花丸のことを凝視している。正真正銘の鳩が豆鉄砲を食らったような表情をしながら。
「なんで、なんでこんなところに」
 鳩のような小ぶりな目を最大限見開きながら少女は言った。
「ど、どういうこと」
 花丸は慌てふためき慌てふためいた。
「知り合い?」
 胡桃は不機嫌に訊いた。自分でもよくわからないのだが花丸が他の女性に見つめられている、という事実が不快でならない。これはまさか・・・・・・胡桃がそう思った矢先に、
「知らないよ」
 と花丸が断言した。
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