幻想
 鳩葉もそうなのだが、音楽を生業にしている、または生業にしようとする人物は、自信家が多い。度を過ぎると傲慢になる。どの世界でもそうなのだろうが、一定の謙虚さは必要である。ひとたび傲慢の炎が燃え上がると、あまりの熱気と高温により、人が寄りつかなくなり、気づけば一人になっている。
「遠慮しときます」
 鳩葉はハンカチで口元を拭おうとポケットから取り出そうとした。その際にピックが床に落ちた。
 青葉が気づき、「珍しいピックだね」と拾い上げ、しげしげと眺めた。
「母親から」
 端的に鳩葉は言った。
「へえ」と青葉は感心したような意図的な驚きを示し、「音楽に理解あるお母さんでいいね」とコーラのグラスに手をつけた。
「もういないよ」
 ピックの話になると、必ず母の話になり、そして�死�の話題になる。本来なら、話をオブラートに包み、死、の話題ではなく、別の話に転換すればいいのだが、鳩葉はまっすぐな性格であり、嘘をつくのが苦手だ。それに、嘘をつくほどのことでもないし。
 いつもなら、死、の話題を出すと大概の人は、黙秘か、視線を逸らすか、言葉に詰まるか、という三段技法を絡めてくるのだが、青葉は違った。
「リセットか」
 と特殊な言い回しで鳩葉の心を掴んだ。
「リセット」
 鳩葉は店員にコーヒーのお替わりを頼み視線を青葉に向けた。
「そうだよ。たぶん鳩葉ちゃんにとって転換点だったんじゃないかな」と鳩葉の瞳の奥を覗き込むようにぐっと身を乗り出した。「一つの事柄が終わりを告げると、新しい扉が開かれる。躊躇していたことに、すっと挑戦する気になったり、住み慣れた街を離れたり、価値観が変わる。そうやって個人は進化し、その進化の過程で重要な人物に出会うと思うんだ」
「それが、あなた?」
 鳩葉の問いかけに青葉は何もいなかった。今、自分が言ったことをなかったことにするように彼は悠然と、コーラを飲んでいる。炭酸が胃に入り消化する過程で、自ら放った言動をなかったことにしようとでもいうのだろうか。
 考え過ぎ。
 三年前の十七歳に時に、鳩葉の母親は自殺をした。幼少期から父親のアルコール依存症がたたり、逃げるように離婚。それが功を奏したのか、順風満帆な母娘を過ごした。しかしある時、母親の様子がおかしくなった。おかしい、というのは精神を錯乱したというのではない。
 女に戻った。
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