アイスブルー(ヒカリのずっと前)
夕日を背に、団地の狭い階段を上る。
「うちに寄る?」
拓海が振り返り結城に訊ねた。
「いや、帰るよ。今日は一度も机に向かってないから」
「まじめだよね」
拓海は言った。
「普通だよ」
結城はそういうと、二階の踊り場で立ち止まった。
「どうしたの?」
「うん」
結城はポケットから携帯を取り出し、メールを確認する。
「なんでもないよ」
「ナツキちゃんだろう?」
拓海はにやりと笑って結城を見た。
「まあ、ね」
結城は顔を背けて携帯をポケットに戻す。
「大切だったら、もうちょっと優しくしてあげなよ」
拓海は言った。
「わかってるよ」
結城はそう言うと手をあげて「またな」と階段を昇っていった。
薄暗い外廊下を歩く。
コンクリートはまだ暖かい。
鈴音のことを考えた。
憎んではいない。
責めたい気持ちはある。
しこりのように胸の中にとどまって、その感情はなかなか出て行かない。
でも、憎くはないんだ。
あの人の不幸を、今願っている訳じゃない。
それだけでも、拓海は少しほっとした気がした。
身体の中心でこわばっていた感情が、少し緩む。
身体を何かが巡りだす。
ポケットから鍵を取り出し、扉を開けた。
西日が入り、部屋は茜色。
ふと下を見ると、母親の平靴が並べてある。
「あれ? 母さん、帰ってるの?」
拓海はそう声をかけながら、部屋に入った。
窓が開いていて、部屋の空気が動いてる。
白いレースのカーテンがふわりと舞い上がった。
寝室をのぞくと、布団を敷いて母親が寝ている。
「どうしたの?」
拓海は寝ている母親の側により、膝をついた。
「あ、お帰り」
母親は身体を起こそうとしたが、つらそうに顔をしかめた。
「いいよ、寝てて。どうしたの?」
拓海は再びそう訊ねる。
「母さん、風邪を引いたみたいで。本当に恥ずかしいんだけど、職場を早退してきたの」
口からふうと息を吐き、苦しそうに身体の向きをかえた。
拓海は母親のおでこに手を添える。
「あ、熱いよ」
「やっぱり?」
母親は仕方がない、というように笑った。
「無理しすぎなんだよ」
拓海はタオルケットを母親の身体にかけ直した。
「薬のんだ?」
「飲んでない。いいわよ。一晩寝ればすぐ治るから」
「駄目だよ、飲まなきゃ」
拓海はタンスの引き出しを開けて、薬箱を取り出した。
開けると正露丸の独特な匂いが鼻につく。
薬瓶を振ると最後の三粒が手のひらに乗る。
「あ、なくなっちゃった。後で買ってこなくちゃ」
拓海はコップに水を入れ、母親の元へ持って行く。
やっと、という感じで母親は身体を起こし「ありがとう」と言って薬を飲み干した。
溜息とともに再び横になる。
「もう大丈夫」
母親はそう言うと目を閉じた。
「ゆっくり寝て。夕飯はうどんを煮るよ」
「ありがとう。悪いわね」
拓海はそっと襖を締めると、台所に立った。
冷蔵庫をのぞいてみる。
「ゆでうどんと、ネギ。わかめもある。これでいいや」
拓海はそう言うと、グラスを出して麦茶を注いだ。
母親は滅多に弱音を吐かない。
仕事もほとんど休んだことがない。
今日はきっと本当に具合が悪いんだ。