アイスブルー(ヒカリのずっと前)
結婚を決めたとき、正明と共に老いて行くことを想像した。
ありきたりだけれど、二人縁側でお茶を飲む。
そんな静かな将来を思い描いた。
この人となら、幸せを感じられるかもしれないと考えた。
そんな気持ちになった。
結婚して三年がたち、正明は「子供を作らないか?」と鈴音に言った。
鈴音は頷いた。
「子供、欲しいわ」そう言った。
特に避妊をしているわけでもないのに、子供を授からないので、正明が言った。
「僕の同期が、産婦人科を開業してるんだ。親父さんの跡をついで。そこなら安心だ」
鈴音は言われるままに、その産婦人科に行った。
重い扉をを開ける。
ひやりとした冷房の空気。
消毒の匂い。
待合室のピンクの長椅子には、お腹の大きな女性たちが座っている。
受付で診療前の質問に記入する。
「妊娠経験」
鈴音はその項目で、ペンを握ったまま固まった。
「分娩・流産・人工中絶」
息ができない。
「人工中絶」
どこに印をつけるの?
目を上げる。
受付の看護士と目が合った。
再び紙に視線を戻して「人工中絶」にマルをつけた。
書いてから、恐ろしくなる。
ここは正明の友人の病院。
鈴音は唇を噛み締め、呼吸を整え、その場をやり過ごした。
それからしばらく通ってみたが、思うように妊娠しない。
不安が募ってくる。
自分のせいかもしれない。
それを正明に知られるかもしれない。
でも、知られたとしても。
知られたとしても、正明は何も言わないのではないか。
知らない振りをしてくれる。
きっとそうだ。
そうあって欲しい。
数ヶ月後、正明の検査もあって、二人でその病院を訪れた。
鈴音は不安で仕方がなかった。
心細そうにしている鈴音を気遣って、正明は鈴音の手を握る。
暖かな感触。
思わず涙が出そうになった。
「僕は産婦人科が苦手なんだ」
正明が言った。
「五番さん、診察室へお入りください」
看護士が声をかけた。
「次だね」
正明が小さな声で言った。
「なんで?」
「何が?」
「なんで産婦人科が苦手なの?」
暖かな手の感触が心地よい。
「研修医だった頃、産婦人科に配属されて……」
「?」
「中絶手術をしたんだ。すごく、嫌な気持ちだった」
正明が鈴音の手を強く握る。
「法で守られてはいるけれど、あれは人殺しだ。殺される子供の尊厳も何もないよ」
正明が眉をひそめる。
そのとき、わたしはどんな顔をしていただろう。