アイスブルー(ヒカリのずっと前)


鈴音は正明の差し出した指輪を、そっと手で押し返した。
正明がつらそうに目を閉じる。


「ごめんなさい」
小さな声で鈴音が言った。


正明は深く息を吸い込むと、鈴音の指輪を手のひらにのせた。
しばらく眺める。


「君がいないと、あんなに欲しかった休みが、少しも欲しくないんだ」
正明が自嘲気味に笑う。

「起きて、病院にいって、死ぬほど働いて、疲れて、眠くて、でもまだ働いていたいと思う」


鈴音は黙って、正明の疲れた顔を見ていた。


「君がこの家を離れたくないというのなら、僕がここに引っ越して来たっていい」

「病院から遠いわ」

「かまわないよ、そんなこと」
正明が首を振る。

「君を深く傷つけたこと、心から謝るよ。僕は誰も罰したり、責めたりするつもりはないし、したくもない」

「わかってる」

「君が過去を抱えきれないというのなら、僕がずっと側で一緒に持ってあげる。記憶をなくすことはできないけど、一人で泣かなくたっていい」


鈴音は正明が静かに言うのを、何も言えずに黙って聞いた。


「君が必要だ。君と一緒にいたいんだ。まだ怒ってるのなら……」

「怒ってなんかないわ」
鈴音は思わず遮った。


かつて。
正明の頬を両手ではさんで、その聡明そうな額に何度も唇をつけた。

愛しくてたまらなかった。
彼の笑顔。

自分を愛してくれていた。
鈴音が罪を犯していなければ、今も正明の額に唇をつけ、微笑み、幸せを感じていたはずだ。


「あなたのせいじゃない」
鈴音は身体を折り、畳に額をつけた。


い草の香りがする。


「ごめんなさい。本当にあなたのせいじゃないの。全部私の問題」


正明は言葉を失う。


「本当にごめんなさい」
正明と過ごした時間がよみがえる。


彼の体温で包まれる、あの心地よさを、幸福感を思い出した。
涙が出そうになるのを必死に堪えた。


「……僕を愛していてくれていた?」
正明が静かに訊ねた。


鈴音は顔をあげ、正明の赤い目を見る。


「愛してた。今も、多分。でも一緒にはいられない」
最後の語尾が震える。


正明はその言葉を聞いて頷くと、指輪をポケットにしまった。


「帰るよ」

「ごめんなさい」

「いいよ。大丈夫だ」
正明が立ち上がり背を向ける。


風鈴が鳴っている。


日差しが少し和らぎ、庭の緑色が深くなる。


「ありがとう」
正明はそう言うと、家から出て行った。



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