アイスブルー(ヒカリのずっと前)
十三
結城から借りたノートを全て写し終えて、拓海は大きく伸びをした。
夜。
静かな時間。
台所に立っていた母親が、呆れたような顔をしてこちらを見ている。
休みだった母親は、一日中のんびりと過ごしたらしい。
少し咳が残るだけで、体調もいいようだ。
たくさん睡眠をとった後の、すっきりとした顔をみて、安堵する。
「自分でやった宿題はあるの?」
母親が麦茶を手渡しながら、拓海に話しかけた。
「ない、かな。小学校の頃は、観察とか、自分でやってたけど。それを結城に見せてやってたんだよ」
拓海は得意そうに話した。
「今は全部やってもらってるじゃない。何のために高校へ行ってるの?」
母親が小言を言ったが、顔には穏やかな笑みが浮かんでる。
しばらく二人で麦茶を飲んだ。
扇風機の風が、二人の間をいったり来たり。
「今日は熱帯夜だね」
母親が小さな溜息をつく。
「うん。氷枕でも作る?」
「そうね」
母親は頷いた。
拓海は母親の顔を見る。
鈴音と同い年には見えなかった。
「ねえ、母さん。」
「何?」
母親は麦茶を飲み干すと、笑顔で答えた。
「僕、専門学校にはいかないよ、やっぱり」
拓海は意を決して言う。
母親がショックを受けたような表情を浮かべる。
「働きたいの?」
「うん」
拓海は頷いた。
夜の虫の声が、窓の外から聞こえてくる。
「じゃあ、就職活動しなくちゃあね」
母親が自身を納得させるように、うんうんと頷く。
「もう、働く場所は決まってるんだ」
「そうなの?」
母親が驚いて、拓海の顔を見る。
「今、バイトに行ってるカフェで働きたい」
「店長さんは、いいよって言ってくれてるの?」
「まだちゃんとは言われてないけど。でも、たぶん、いいっていうはず」
「そんな曖昧な契約?」
母親は疑いの眼差しを向けて来た。
「お給料はほとんど、もらえないと思うけど。でも、僕とその……店長が食べて行く分は稼げると思う」
母親は拓海の言い回しに、不自然さを感じたようだ。
首を傾げて、拓海の瞳を見る。
「その店長さんって、どんな人?」
母親が訊ねる。
「母さんと同い年の女性だよ」
「そう」
母親が解せないというような表情を見せる。
「母さん、僕。その人と暮らしたいんだ」
拓海は言った。
母親の表情が固まる。
目を見開き、息子の言った言葉を、頭の中で反芻しているようだ。
「おつきあいしてるの?」
母親がかすれた声で訊ねる。
「ううん」
拓海が首を振る。
「じゃあ、なぜ? 住み込みで働くことが条件なの?」
「違うよ」
「どうして」
「母さんは信じないかもしれないけど、彼女とは、なんていうか特別なつながりがあるんだ。」
「?」
「僕、自分が自分として産まれる前の、記憶がある」
「何言ってるの?」
母親が意表はつかれたような顔をした。
「今まで話したことはなかったんだけど、僕はいろんな人の光が見えるんだ。カメラを通して、その人の光が見える。だからカメラを持ち歩いてた。人の光が見たいから」
「待って、待って。母さん、ちょっと混乱してるみたい。あなたの言うことがよくわからないんだけど」
母親がおでこに手を当てる。
「彼女の光は、カメラを通さなくても見えた。だから彼女はなんか、僕とつながりのある人だって気がしてたんだ。それで、彼女のことを見てたんだけど、最近になってわかった」
「何が?」
「彼女は、以前僕の母親で、だから出会ったんだって」
母親が信じられないというように、拓海を凝視する。
「あなた、正気?」
「うん。絶対に信じてもらえないから、今まで言わなかった。カメラは嫌いじゃないけど、撮ることが目的じゃないんだ。だから、専門学校には行かない」
母親の衝撃が、拓海の胸にも伝わる。
申し訳ない気持ちになった。
「母さん、母さんの気持ちはうれしかったんだ。それは本当。でも、僕の中に、彼女といなくちゃっていう衝動がある。彼女を一人にできない。ずっと一緒にいなくちゃって」
「何考えてるの……」
母親は脱力したように、言葉にした。
「ごめんなさい」
母親は拓海の手を取った。
「あなたはまだ、十代で、子供で、だから、きっと今冷静じゃなくなっているのよ」
「母さん……」
「ゆくゆく、その人と一緒に暮らすというのは、反対しないわ。本当よ。でもそれはあなたが、勉強して、社会に出て、身を立てて、それでも彼女と一緒にいたいと思ったとき」
母親の手に力がこもる。
「彼女のことが好きなら、少し我慢しなさい」
「そういうんじゃ、ないんだ。母さん」
拓海は母の手にもう片方の手を重ねる。
「精神的なつながりなんだ。産まれてからずっと旅をしてきて、終点がそこにある。そんな感じ」
拓海は母親を落ち着かせるように、精一杯の笑顔を見せる。
「大丈夫だよ。僕の向かう方向は間違ってない。確信があるんだ」
「拓海……」
拓海は母親の手をそっと離すと、
きわめて明るく「結城にノートを返してくるね」と言って、立ち上がった。
手に借りたノートと、携帯を持つ。
母親は立ち上がる拓海の顔を、呆然と見ている。
扇風機の風で、白髪の混じった母親の髪が、頬に張り付く。
本当に申し訳なく思った。
母親にこんなことを言うべきではなかったのかもしれない。
それでも無言で出て行く訳にいかないし、母親の言う通り「我慢」することもできなかった。
拓海のなかにある、消えない「鈴音と一緒にいなきゃ」という焦り。