アイスブルー(ヒカリのずっと前)
拓海は母親の視線を振り切るように、玄関を出て、廊下に出る。
廊下の蛍光灯が、白く、チカチカと光る。
蝉の死骸が、コンクリートの上におちていた。
拓海は目を閉じて、少し呼吸を整える。
なんだか涙が出そうになった。
Tシャツの裾をひっぱって、目尻の涙を拭う。
夜。
携帯の時計を見ると、十一時。
結城はきっとまだ勉強している。
「お前は焦り過ぎ」とたしなめられるだろうか。
拓海は結城の部屋へとあがって行く。
急な階段。
ここにも蝉の亡がら。
上を見上げると、踊り場に備え付けられた蛍光灯の周りに、羽虫が数匹飛んでいた。
階段が青白く光っている。
結城の家の前まで来ると、「結城」と声をかけた。
けれど応答がない。
玄関脇の窓からは、中の明かりが見えている。
拓海は携帯を取り出し、結城の番号にかける。
数回の呼び出し音。
すると中から携帯が鳴っている音が聞こえた。
「やっぱり、中にいる」
拓海は首を傾げた。
「寝ちゃったかな」
拓海は玄関のノブを回す。
「開いてる」
拓海は扉の隙間から顔をのぞかせ「結城、寝てる?」と声をかけた。
部屋には携帯の呼び出し音が鳴り響く。
台所の明かりは消え、その奥の居間の明かりがついている。
そこに結城が立っていた。
「結城?」
拓海は違和感を覚えながら、結城に再度呼びかける。
結城の膝は、少し曲がってる。
頭がうなだれている。
そして、首から、紐が、上に伸びていた。
「結城!」
拓海は靴のまま、部屋に駆け込んだ。
よろめきながら、結城の元に駆けつける。
上を見上げた。
カーテンレールからビニール紐が下がってる。
結城の顔の色は、真っ赤だった。
拓海は台所に駆け戻ると、シンク下の包丁を取り出す。
いつも結城が勉強している小型の机を引っぱり、その上に乗って、ビニールひもを切る。
どたん、とすごい音がして、結城が畳の上に倒れ込んだ。
「結城! 結城! おい!」
拓海は首と紐の間に指を入れて、紐を緩める。
「息して! 結城。何やってるんだよ! お願い、息して!」
拓海の心臓は激しく動き、不安でもうろうとなる。
結城の心臓に手をあてる。
「動いてる」
拓海は少しほっとして、それから携帯で救急車を呼んだ。
「どうして?」
拓海は結城の胸の音を手のひらで感じながら、泣きそうになるのを必死に堪える。
今にもこの振動が止まってしまうかもしれないという恐怖。
泣いている結城の映像を見たことを思い出した。
結城の顔色が戻ってくる。
「結城、目を開けて!」
拓海は結城の肩を揺すった。
「お願いだよ」
結城のまつげが震える。
それからゆっくり目を開いた。
白目が真っ赤に充血してる。
身体を折り曲げるようにして、激しく咳き込んだ。
咳とともに、血が吐き出される。
「大丈夫?」
拓海は起き上がろうとする結城の背中を支え、必死になでる。
「なんでだよ。なんで、こんな……」
拓海は声に詰まった。
「……生きてる」
結城がしゃがれた声を出す。
「馬鹿なことするなよ。なんで……お前みたいに、全部持ってる奴が、簡単に死のうなんて、馬鹿だよ!」
拓海は必死に訴える。
「役目が終わったんだ」
結城が首に手をあてて言う。
「何言ってるんだ? お前にはナツキちゃんだって、いるだろ?!」
「ナツキ?」
「そうだよ! 好きだって、言ってたじゃないか!」
「……好きだよ。でもそれだけ。特別じゃない。あいつは恋人だってだけだ」
「?」
「お前だけが特別なんだ」
結城が唇に自嘲ぎみに笑みを浮かべた。
拓海は胸を殴られたのかと思った。
息がつまる。
「俺は男で、お前も男。それでいい。性別を気にしたことなんかなかった。俺は女性が好きだし、お前を抱きたいと思ったこと、一度もない。そんなんじゃないんだ。違うんだ。そういうことを飛び越えた、特別な……」
結城の手が震えてる。
「お前があの人と出会って、幸せそうにしているを見て、うれしかった。嘘じゃないよ。でも、お前が、お前だけの特別な人と出会ってしまったら」
結城が大きく息を吸った。
「俺は生きる意味がなくなる」
「結城……」
そこに玄関が開いて、薄いブルーの制服を着た救急隊員が入って来た。
ヘルメットをかぶった中年の男性。
救急隊員はその場で何が起きたのか察すると、もう一人の若い隊員に耳打ちし、担架を持って来た。
結城の側にひざまずき、外傷を手早く確認する。
抱え上げられるように、担架に乗せられた。
ちらりと見えた結城の首のタトゥーが、紐で赤く擦り剥けている。
拓海はよろけながら立ち上がり、結城の側に歩み寄る。
結城が拓海を見る。
大きな瞳。
「泣くなよ」
結城が言った。
「ゆう……」
拓海は嗚咽でうまく話せない。
結城が目を閉じる。
頬にかすれた血の跡。
「気づかれずに、逝きたかった」
担架にのせられ、結城が部屋を出て行く。
若い方の隊員が「病院にいきましょう」と拓海を促した。
「いえ、僕は……」
これ以上、結城と一緒にいるのが耐えられなく、拓海は首を振った。
「でも、手当をしないと」と言って、隊員が拓海の手を取った。
自分の手のひらを見る。
血だらけだ。
そこで初めて拓海は、自分の手を誤って包丁で切ってしまっていたことに、気がついた。