アイスブルー(ヒカリのずっと前)
九
「最近、バイトには行かないの?」
母親の声が背後から聞こえた。
「うん。しばらく……休み」
拓海は畳の上に寝転んで、ぼんやりと窓から空を見ていた。
「そうなの。結城くんもいないから、暇ね」
母親が軽く笑って言った。
「じゃあ、行ってくるね」
拓海は起き上がって、玄関で靴を履く母親を見る。
「いってらっしゃい」
母親は笑顔で手を上げて、重い玄関ドアを開け、出て行った。
扉が閉まる音を聞いてから、拓海は再び畳の上に転がった。
晴れている。
薄手の白いカーテンが、ふわふわと揺れる。
白い雲がゆっくりと、右から左へと流れた。
拓海は目を閉じた。
いろんな音が聞こえる。
団地のどこかの部屋で、子供が泣いている。
道路には車が走ってる。
蝉もいるけれど、一時ほどうるさくはないていない。
目を開く。
横を向き、畳の目地を見る。
指でなぞる。
指先に埃が少しついた。
それから拓海は軽く溜息をついて、身体を起こした。
白いTシャツは、汗で濡れていた。
着替えるのも面倒くさい。
何もかも面倒くさい。
何もしたくない。
何も考えたくなかった。
鈴音にあんなことを言うつもりはなかった。
ずっと堪えていたのに、鈴音に触れられたとたん、我慢できなくなった。
「殺した」
それは悲しくて、
痛い、
言葉。
どうして鈴音の光だけが、肉眼で見えるのか。
それは彼女にかつて、自分が殺されたから。
生まれ変わり。
自分が自分としての命を得る前に、別の誰かだったなんてこと、信じられる訳がない。
そもそも、そんなことを考えたこともなかったけれど。
「だけど……そういうことなんだ」
拓海は小さくつぶやいた。
意識を失った後、悲しみの中でただひたすらに泣いていた。
「あの人は、僕をいらないと言った」
それだけが拓海の中にあった。
無理矢理に引き離した。
殺して、
捨てて、
なかったことにした。
恐ろしいことに、彼女は一度もためらわなかった。
最後の最後、拓海になる前の命を殺す、その直前でさえも。
迷わなかった。
「そんなこと、僕が覚えている必要なんかないのに」
拓海は顔をおおって、再び溜息をつく。
拓海は転がって、身体を丸めた。
肌の重なる部分が汗で湿ってくる。
暑いと感じていても、芯は冷えきっていた。
「もう、会わない」
拓海は言った。
「会わない。会わない。会わない。会わない。会わない。会わない」
自分に言い聞かせるように唱える。